お前に何が分かる、と、怒鳴りたいのに声が出なかった。
 それを言ってしまえば、全部私情であるということを認めてしまうようだ。
「……アイツがかわいそうだ。アイツは、一人で泣いて、傷ついて、嫌なことしてまでオメーの役に立ちたいって思ってんのに」
 どうして沖田の方が苦しそうなのだろう。それが土方には少しだけ不快だ。頭の中の冷えた部分で、苦しいのは俺の方だと自分自身が言い募っているのを、土方は聞いている。
(お前に何が分かるっていうんだ、畜生)
 一人で泣いて傷ついて、嫌なことまでして役に立ちたいと、そんな気持ちは少しもいらないから、そんな気持ちを抱かせなくてすむようにしているのだ。山崎が泣かないためにそうしているのだ。
「俺がアイツを特別扱いするせいでアイツの立場が悪くなるって、最初に言ったのはテメェだろう」
 喉をこじ開けるようにして無理矢理ひねり出した声は、思っていたより低く滑らかに響いた。
「あいつが好きだから、そうすんでしょう」
「……何が」
「ごめんなさい、俺が悪かった。特別扱いすんなって俺が言ったのが悪かったんでしょう。俺が頭下げてそれでいいなら頭くらい下げてやっから、だから、」
 沖田が声を詰まらせて、首を深く下げる。謝っているつもりなのか、それとも気持ちを呑み込もうとしているのか判然としない。
「俺ァもう、あいつのあんな顔見たくねェんですよ……」
(……お前に、)
 何がわかるっていうんだ。
 土方は奥歯を噛み締めた。お前に何が分かるんだ。怒鳴ってしまいたい。けれど、ここで怒鳴っても仕方がない。
 沖田の言うことは尤もなのだ。土方のやっていることは結局職務放棄になるだろうし、たとえ今の状況が多忙を理由に許されるとしても、落ち着いたらまた土方は山崎を使わなければならなくなる。そのために、傍に残したのだ。切腹しろとあれだけ響いていた声を、一人で勝手に静めさせたのだ。
 けれど。
「知らねェよ、そんなこと。あいつが傷ついてるってんなら、お前が慰めてやりゃいいだろう」
 土方が冷たく放った言葉に、沖田が俯かせていた顔を上げる。その顔色が白く変わっていた。
「本気で言ってんですかィ?」
「ああ」
「…………俺ァあんたのことすげえ嫌いで殺してやりたいと思ってっけど、今ほど無残な殺し方したいと思ったのは始めてでさァ」
「そうかよ」
 沖田の手がすらと腰に帯びた刀に伸びてその柄をぎゅっと握った。力を入れすぎて白くなったその手を、土方は顔色も変えずに見ている。
 そんなに力を入れては、斬れるものも斬れなかろうと余計なことを気にしている。
「…………」
「……どうした」
「……」
「斬らねェのか」
「…………あんたは本気で最低だ。鬼なんてェもんじゃねェよ。テメーが死んだらあいつが泣くってこと分かってて、そんなことを言うんだろう」
(俺が死んだら、あいつは泣くのか?)
 さも当たり前のように言う沖田の言葉に、土方は静かひとつ瞬きをした。
 そんな土方の様子を、沖田はどこか薄気味悪そうに見ている。不快気に顔を歪ませて、ちッと一つ舌打ちをした。
「死ねよ土方」
「なあ総悟」
「……何」
「俺がよぉ、あいつを特別扱いしてる風にお前には見えてたとしてもよ。それはお前の言うような気持ちじゃねェよ」
「…………」
「あいつは優秀だし使い勝手がいい。だから俺ァ、自分の都合であいつをこき使ってんだ。それであいつがどんな思いでいるとか、裏でどんな風だとか、そんなこたァ気にしたことがねェよ」
 突然喋りだした土方に沖田が片眉を上げて、握っていた柄からそっと手を離す。
「お前が言うような、そんなきれいなもんじゃねェよ」
 好きというなら、沖田の持っている真っ直ぐさこそがそうだろう、と土方は思う。
 山崎が傷つくから、と怒ることのできる沖田の優しさが、「好き」という気持ちなのだろう。
 もちろん沖田が土方に対して確認した気持ちが、そんな意味ではないということは分かっている。
 恋だろう、とそう言うつもりなのだ。
「お前はまだ、ガキだな」
 思わず口にした。沖田はさっと顔色を変えて、勢いよく立ち上がった。
 斬りかかられるか、と土方が顔を上げれば、予想と違い沖田は土方から跳ぶように離れ、その大きな目で土方をきつく睨みつける。
「……ガキだから、分かることだってあるでしょう」
 はっきりした声音でそう言って、沖田はくるりと踵を返した。副長室の襖は沖田に蹴倒されてしまって閉まらない。沖田のいなくなった寒々しい廊下だけが、ずっと土方の目に映っている。
(恋であってたまるかよ)
 相手が男だからとか、そういうことはこの際どうでもいい。そんなことは関係ないが、恋であってはたまらない。
 こんな気持ちが。
 土方は大きくひとつ舌打ちをして、目の下を指の腹で撫でた。
 そこにあった小さな傷は、すっかり治ってしまっている。
 あんな姿を見て、あれほど拒絶されたのに、それでも自分はくちづけようとしたのだ、と土方は溜息を吐いた。
 触れて、くちづけをしたいと思ったのだ。傷ついていた山崎の姿を知っているのに、触れないでくれと聞いたことのない声で叫ばれたのに、それでも触れた。欲しがった。
 これが、こんな気持ちが恋であるわけがない。
 好きだとか、そういう優しい気持ちであるわけがない。
(俺が死んだら、本当に泣くんだろうか)
 笑うのではないか、と少し疑っている。
 知られたくない秘密を知った人間がいなくなったと喜ぶのではないかと思ってる。
 もし、そうならそれでいい。それで山崎の気が晴れるのなら、それでもいいのだ。
 傍にいたら、きっと触れたいと思ってしまう。それはきっと山崎を傷つけるだろう。
 好きだから触れたいと思うのなら、それは土方だって構わなかった。けれど違うのだ。そんな優しい感情ではないのだ。
 ただ欲しいと思っただけで、そしてそれが、男に汚されて傷つけられた山崎にとって、どれほど醜く映る感情かということを土方は知っていて、それでも触れたいと思うのだから、これはやはり、恋などという柔らかな感情では、決してないのだ。






    +++






「引継ぎが遅くなって悪かったな」
 突然山崎の部屋を訪れた土方は、そう言って綴じられた書類を山崎へ放った。
「それがここ二週間の動きだ。先だっての捕り物の話はでかく報道されたからな、他の組織もしばらく大人しくしてるだろうってのが、俺と近藤さんの見解だ。特に目ぼしい情報は上がってねェ」
 放られた書類を山崎はぱらぱらと捲った。書かれていることはそれ程多くはない。ほとんどが、先日の捕り物に関しての結果報告だ。捕縛者の中に、いつかの宿屋で軽くあしらった男の名前があった。殺されなかったのか、と思うと同時に、どうせ獄中死だろうな、と冷たい気持ちも湧く。
 ひどい主人から逃げておいで、と言った言葉が、不意に耳の奥でよみがえった。
「どうした?」
 書類の一点を見つめたまま動かない山崎に、土方が不審げに声をかける。
 山崎の部屋に一歩も入らず、開け放した襖の向こう側から少し大きめの声で。
「……いえ」
 何でもありません、と笑顔を作って顔をあげた山崎の視線から、土方は目をさっと逸らした。
(……本当に、ひどい主人だ)
 飼い殺すだけ飼い殺して、少しも使ってくれないなんて。
「今の進展は、これだけですか?」
 少ない資料を捲って山崎が聞けば、土方が上着の内側から煙草を取り出しながら「おう」と短く答える。その仕草が、山崎の見知ったものであって不思議に安心した。別に、土方が土方でなくなってしまったわけではないのに。煙草に火をつける姿をこうして見たのは幾日振りだろう。
(……誰が、煙草買ったのかな)
 ストックはもう少なかったはずなのに。忙しいのが本当だったなら、買いに行く暇もないだろうのに。
 煙草の買出しもマヨの買出しも、それくらいなら、引継ぎなしだって行けたのに。どうして自分はそんなこともしなかったんだろうな、と山崎は唇を小さく噛んだ。
 だって怖いじゃないか。
 いらないと跳ね除けられたら、どうしていいのかわからない。
「副長」
「何だ」
「引継ぎありがとうございました。それと、実は、先日までの調査の中で、ひとつ気になっていることがありまして……」
「気になってること?」
「はい。先日の組織、計画とは無関係だったので報告していませんでしたが、別件で少し怪しい場所があるんです」
「そりゃどこだ」
「大海屋の主人の元に、深夜になるとどうも人が集まっているようだ、という話なのですが。噂程度の話なので確認は取れてませんが、特に新しい情報もあがっていないようですし、よければ近々行って調べて」
「駄目だ」
「え、」
 ぴしゃり、と言った土方は、煙草の煙を深く吸い、吐いてから、驚いている山崎に向かってもう一度「駄目だ」と言った。
「何で、」
「その話、具体的に教えろ。捜査は他の奴に任せる」
「ちょ、待ってください。俺の謹慎解けたんですよね?」
「ああ」
 煙草の灰が、じりじりと長くなって落ちそうだ。
 土方は一度ちらりと山崎の部屋にある灰皿に目を向けて、しかし自分の上着のポケットから携帯灰皿を取り出した。軽く叩いて灰を落とす。
「何故、俺じゃ駄目なんですか」
「駄目ってこたァねェがな。お前は少し、働きすぎだ。謹慎が解けたつっても、まだ他の奴らは何か言ったりするだろう。どうせ休みもやれてねェしな。いい機会だと思ってしばらく、」
「土方さん!」
 山崎の声が廊下に響く。けれど土方は山崎と目を合わそうとしない。
 煙草の灰を静かに落としている。一歩山崎の部屋に入れば、土方が持ち込んだ灰皿があるのに。
「……俺じゃ役に立ちませんか」
「そういうわけじゃねェよ」
「俺は何もできませんか。俺のことなど邪魔ですか。傍にいるのも迷惑ですか」
「山崎」
「…………気持ち悪いですか?」
「は?」
「傍に置いておくのも、嫌になりましたか?」
 土方の視線がゆっくりと山崎へ向く。その無骨な指に挟まれた煙草の灰が、廊下へ落ちてしまいそうだ。
(最初から、分かってたことじゃないか)
 嫌われただなんてそんなこと。あんな姿を見られて、今まで通り傍に置いてもらえると思ったのが間違いだったのだ。
 優しくされたから、調子に乗ってしまった。勘違いはしないでおこうと思ったのに、あんな距離で見つめられたから、もしかしたらと思ってしまった。
 命を助けられたから、期待をしてしまった。せめてまだ役に立つことはできるのだと喜んでしまった。
「……すみません、余計なことを言いました。仕事のことは、副長にお任せします」
「山崎」
「資料、ありがとうございました」
 にこりと笑顔を浮かべれば、土方の顔が強張ってさっと視線が逸らされる。
 山崎の心臓がすう、と冷えた。尖った氷を心臓にぴたりと押し当てられている気分だ。
 土方はそのまま何も言わず、山崎の顔を見ようとしないまま、あっさり山崎に背を向けて後ろ手に襖を閉めた。ぱたん、と閉じた襖をじっと見て、山崎はきつく手を握る。
(涙が出なくてよかった)
 もう少しで泣いてしまうところだった。自分があまりに情けなくて泣いてしまうところだった。
「これはもう、ダメだよなぁ……」
 傍にいれない。役に立てもしない。それどころか、困らせてばかりいる。
 本当はきっと土方は自分の顔など見たくもなかったのだ。そう思えば、我慢していた涙が出てきてしまいそうだ。
(俺が沖田さんに愚痴ったからだ)
 だから、顔を見たくもないのに、沖田に責められて来たのだろう。沖田はとても優しいから、山崎があんな愚痴を言えばすぐ土方に言いに行くことくらい、少し考えたら分かったはずなのに。
 優しくされる資格もないのに甘えてしまった。役に立ちたいといいながら困らせてしまった。
 だからやっぱり切腹でも何でもしておけばよかったのだ。
 別にそれが隊の決めた処断でなくたって、一人でだってできたはずだ。沖田や原田に介錯を頼むなりして、一人自室でも腹を切ることくらいできたはずなのに。
(……あの人の手で、介錯されたいと思ってしまった。どうせ死ぬなら、最後はあの人の手で死にたいって、浅ましいことを思ってしまった)
 最後まで一番近くにありたいと、そんなことを夢見てしまった。

「……土方さん、」

 だって、好きなのだ。
 どんなに辛い仕事でも、どんなにその後が恐ろしくても、褒めてくれる手があるから耐えられた。よくやった、と言われるのが嬉しくて、そのためだったら何をしたって苦ではなかった。
 あの煙草の臭いの染み付いた指で髪を撫でられるのが好きで、優しくされると嬉しくて、この人のためなら何でもしてみせると思っていた。
「……好きだから、ダメなんだ。あの人じゃなきゃ、だめなんだよ……」
 どんなにひどい主人であっても。
 土方の元に帰るために、山崎は動いているのに。
 それができないのなら、どこへ行けばいいのだろう。どうすればいいのだろう。
 頬に触れる掌のぬくもりを知ってしまった。触れて欲しいと思ってしまった。
「何なんだよ……ッ」
 ぐしゃ、と髪を掴んで俯いた。迷惑になるなら消えてしまいたいのに、恋しい気持ちが募りすぎて、死ぬことすらもできやしない。
 我慢していた涙が耐え切れずしずくになってぽたりと畳みの上に落ちた。
 じわ、と染みを作っていく。その傍に、もう一つ同じように涙が落ちる。
「…………ッ」
 喉が引き攣って声は少しも出ないけれど、出たところで、名前は呼べもしないだろう。
 返る声のないことが、悲しすぎて。