雨の音ばかり耳につく。
いつから名前を呼ばれていないだろう。
山崎は小さく息を吐き出して、持っていた茶碗を置いた。食堂ではざわざわと喧騒が響いているが、山崎の耳には上手く入って来ない。かたん、と箸まで置いてしまって、なんとか茶だけは口に含んだ。
たとえば誰かを好きになりすぎて、食事も喉を通らないだなんてそんなこと、あるはずがないと思っていた。
誰かを好きになりすぎて、死んでしまうだなんて、そんなこと夢物語だと思っていた。
それくらい情熱的に誰かを好きになりたいと、少し憧れたことさえある。
それが今では、どうだ。ここ数日、食事はうまく喉を通らない。噛んだって少しも味がしない。水分だけは何とか取るが、それもちっともうまくない。
余程顔色も悪くなっているのだろう。廊下ですれ違うたびに、大丈夫かと声をかけられた。理由を言うわけにもいかないから、大丈夫だよ、と答える日々だが、その嘘が、少しずつ心を壊していくようで苦しい。
ちっとも大丈夫なんかじゃない。いつから名前を、呼ばれていないだろう。
あの、少し少年らしさを残す、けれど高くはない声で、たとえば優しく、たとえばからかうように、怒った声でもいい、山崎、と名前を呼ばれるのが好きだった。沖田に名前を呼ばれるたびに、ここにいていいのだと、言われているようで嬉しかったのに。
無理矢理飲みこむ茶が食道のあたりを苦く焼いて、重く胃に落ちていく。吐き出したくなる溜息を飲みこんだ山崎の耳に、
「山崎」
低い、少し不機嫌な土方の声が届いた。
「……あ、副長。お疲れ様です」
「お前、ちょっと来い」
向けられたいつになく険しい顔に、山崎の心臓が大きく跳ねる。その不安を読みとったのか、土方は小さく「違う」とだけ言って、さっさと背を向け歩きだした。
何かあったわけではない。そのことに安堵して、山崎はぎゅっと目を瞑る。
だったら言われることはわかっている。一つ深呼吸をして、山崎は土方の後を追った。
「26か所」
ばさりと目の前に放られた書類の束に視線を落とした山崎に、低い土方の声が落ちる。
「珍しいじゃねえか、お前がこんなミスするなんて」
「すみません……」
「ちゃんと寝てんのか」
曖昧に首を傾げる山崎に、土方の溜息が落ちる。カチ、とライターで火を付ける音がして、ふう、と大きく煙草の煙が吐き出された。沈黙。
殴って叱り飛ばしてくれればよかったのに、と少し甘ったれたことを山崎は考える。
何にも考えることができないように、暴力的に叱ってくれればよかったのに、こうしてきちんと向かい合って座らされ、呆れを含んで心配されたのではやりきれない。
書類の束を引き寄せる。普段はしない、26か所のミス。
夜は上手く眠れず、日が昇っても食事が喉を通らない。常ならば何でもないことが山崎の心に更に重くのしかかる悪循環。仕事で眠れないときや、食事を取れないときに、自分はどうしていただろうかと考えて、考えて、思い出すのは沖田のことだ。
これが終わったらあの暖かな布団に入れてもらって、少し甘えて眠らせてもらおう、だとか。
これが終わったら気に入りのあの店に一緒に行って、新しいメニューに挑戦しよう、だとか。
これが終わったらきっと褒めてくれるだろう。
お疲れ、と言って、優しく笑ってくれるだろう。
辛い仕事をこなすことが直接沖田のためになることではなかったし、沖田のために仕事を頑張るのでもなかったけれど、でも確実に、思い描く先の楽しみの中には、その姿があったのだ。
なのに今は、それがない。
どこまで行っても、終わりが見えない。
俯いたまま喋らない山崎の頭上に、土方の溜息が煙の形で吐きだされる。
「……お前の気持ちはわかるがな。仕事はちゃんとしろ。わかるな」
「はい。……すみませんでした」
「で、夜は寝ろ。飯は食え。どうにもならなけりゃ散歩でもなんでもして来い」
ひとりで? という言葉を、山崎は飲みこむ。
ふう、と吐き出される、白い靄。
「お前がそんなじゃ、総悟だってなぁ」
靄と一緒に吐き出されたその名前に、山崎の目からぼろ、と大きな塊が零れた。
「だって、」
「山崎?」
「だって名前を、っ」
ぼた、と落ちた涙はまあるく畳を湿らせる。次から次へと落ちてくるそれに、土方が少し戸惑ったような声をあげるが、山崎はもう取り繕うことができない。
夜も眠れない。食事だって喉を通らない。
死んでしまいそうだ。
だって名前を、呼んでくれない。
ぐい、と頬を拭って立ちあがった山崎は、すいませんでした! と深く頭を下げて副長室から飛び出した。山崎、と追いかける声が聞こえるが、その声では山崎の足を止められない。
何かから逃げるように走って、走って、辿りついた自分の私室に飛び込んで障子をぴしゃんと閉めてから、山崎は大きく息を吐きずるずると座り込んだ。
息を吸い込む。
山崎の部屋は廊下の端にあって、窓の向きも悪いので薄暗くてじめっとしている。機密書類が多いので、滅多に人は入れない。
なのに沖田は遊びに来た。何にも気負わず遊びに来た。
目を閉じる。滲んだ涙を膝で隠す。
いつからだろう。こんなに近くなったのは。
(……最初は、俺、嫌われてたんだよ、なぁ)
一番最初、出会ったときは。
年が近いせいなのか、それとも他の理由なのか、沖田は山崎のことをあまりよく思っていない風だった。どうせすぐに逃げ出すだろうと思われていたのかも知れない。用があるときは「お前」と呼ばれて、名前なんてきっと覚えてもらっていなかった。うぜえ、と面を向かって言われたことさえある気がする。
それなのに、いつからだろう、仲良くなった。
(……そうだ、俺が、倒れてからだ)
眠っていないせいで重たい頭を掌で押さえる。
こんな風に体が重たかった。一度、本当に酷い風邪をひいてぶっ倒れてしまったときのことだ。
熱が高くうなされている深夜に、こっそり沖田が様子を見に来て手を握ってくれたのだった。
移ります、と言った山崎に、移したら治るんだろ、と言って、手を離してはくれなかった。
冷たい手が心地よくて、人の気配が暖かくて、その日はとてもよく眠れたのだ。目覚めれば沖田の姿はなく、熱はすっかり下がっていた。
あれからだ。
沖田は山崎の名前を呼ぶようになって、何かあれば声をかけてくれるようになって、気付けばいつも傍にいて、そして好きだと言ってくれた。
畳の上。寝転がる体。散らばる薄い色の髪。お前が好きなんだけど、駄目かなぁ。
言ってすぐに顔を隠した。うそ、ごめん、忘れろ。早口で言うのがおかしかった。笑ったら怒られた。
俺も好きです、だめですか。聞けば目を見開いて、お前意味わかってんの、と言うからどうすればいいのかわからなくて、とりあえず手を握った。
気持ち悪がられたらどうしようかと思ったけれど、沖田はますます驚いて、それからさっと顔を赤くして、その顔を隠すように山崎を抱きしめて、好きだ、と低い声で言うから山崎だって顔が熱くて、ふたりで顔を赤くして、まるで子どものように抱きつくだけだった。
(最初は全部、沖田さんからだ)
名前を呼んでくれたのも。
好きだと言ってくれたのも。
(こわしてくれたのは、全部、沖田さんから)
流れっぱなしだった涙を拭って、山崎は大きく息を吸った。
思い返せば、やっぱり好きだ。
どうしようもなく好きで、好きで、好きだと言ってくれたあの言葉を、嘘にしてしまいたくはない。
(最初は冷たかったんだ。名前も呼んでくれなかった。だったらもう一回、最初からやり直すだけだ)
今度は自分から。
ぱん、と頬を軽く叩いて立ちあがる。きゅ、と口を引き結んで、障子を開けて廊下へ踏み出す。
沖田がそれを望んでいるかどうかなんて、この際どうでもいい。
だって眠れないのだ。ご飯もおいしくない。心を消耗して仕事にならない。
それでは困る。
辛いけれど悲しいけれど、怖いけれどもう、なんでもいい。
傍にいたくてたまらなくて、限界で、それだけだから、もう、我儘だってかまわなかった。
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