傍にいてはいけないと泣きたい気持ちで思って名前も呼べないほどなのに、山崎は当たり前のように沖田の傍にいたがった。
 代わる代わる見舞いに来る人の中に、変わらず山崎の姿はある。本気の殺気で殺す素振りを見せても、ただの一度も優しくしなくても、文句を言わないし逃げもしない。甲斐甲斐しく沖田の世話を焼いて、いつものように軽口を叩く山崎に、沖田の苛立ちは日に日に募る。
 誰のために、というのは、ただのエゴだ。
 分かっている。けれど、どうしようもできない。世界は闇に閉ざされたまま、寝ても覚めても悪夢を見た。白刃が山崎の皮膚を切り裂いて、心臓を抉って殺す夢だ。白刃の先にある柄を握っているのはいつも沖田の手だった。腕の痺れる感覚さえ日増しに鮮明になっていく。夜も昼も区別がなく、閉ざされた世界で夢を見るので、いつか正夢になる気がする。
 正夢になる世界を見たくなくて、自分は視界を閉ざしたのだろうか。
 それとも、目さえ見えなければ二度と刀を握れなくなるとでも、思ったのだろうか。
 精神的なものだからと飽きずに医者は口にするが、見たくないと願ったことも臥せっていたいと願ったことも沖田はない。もしこれが誰かのためであるとするならば、それはやはり山崎のためだ。
 だから苛々する。熱は一向に下がる気配を見せない。意識が絶えずぼうっとしていて、上手に物事が考えられない。
 その熱を冷まして癒すために、山崎が布を水に浸している。ぴちゃん、と水の跳ねる音が鼓膜にやけに高く響いた。目が見えないその分、山崎の気配、息遣い、僅かな衣擦れの音まで、沖田の感覚を刺激してやまない。
 呆れて、怒って、離れて行けばいいのに。
 こんな、我儘でどうしようもなく臆病で弱いばかりの自分のことなど、さっさと捨ててくれればいいのに。
「熱だけでも、せめて下がればいいんですけどね」
 いつも通り変わらぬ声音で困ったようにそう言って、山崎の手が沖田の額にそっと触れた。水に濡れてひんやりとしたそれは、沖田の熱をわずかに奪う。
 気持ちいい。触れていたい。手を握りたい。くちづけたい。抱きしめたい。
 山崎、という呼びかけは、やはり喉に引っかかって音にならなかった。血の味。
「…………、」
 名前を、呼びたいのに。
 飲み込んで沖田は、痛みをこらえて小さく咳払いをする。
「なあ、おい」
 代わりに、ひどく他人行儀に呼びかけた。こういう呼びかけを、昔はいつもしていた。名前を呼ぶ気も、覚える気もなかった頃の話だ。
 山崎はきっと緩く顔を上げただろう。いつもと変わらない顔色でこちらをみて首を傾げただろう。
「はい?」
 返る声が穏やかで、やわらかい。
 そんなものを、望んでいるわけじゃ、ないのに。
「――――――出てけよ」
 ぱしん、と山崎の手を払いのけ、沖田は吐き捨てるように口にした。
 冷たい声だった。喉の奥まで凍らすような尖った声だった。まだこんな声が出せたのか、と、沖田自身が驚くくらい。
「沖田さん……?」
 沖田の手がじんわり痺れるほど力任せに払ったのに、山崎はただ少し困惑したような声で、沖田の名前を静かに呼んだ。大丈夫ですか? と、あろうことか心配しながら、再び沖田に手を伸ばす。それを気配で感じとって、沖田は奥歯を噛みしめた。ぎり、と軋んだ音がするほど、強く。
 伸ばされた腕がそっと沖田の手に触れる。その手を引いて抱きしめてしまいたい気持ちばかり渦巻いて、どうしようもない。そんな沖田の様子を、ただひたすら心配するように、山崎が沖田の名前を呼んだ。躊躇いもなく、するりと平気で。

 腹が立つ。苛々する。

「……出てけよ、お前」
「沖田さん」
「誰が来いって言ったよ。誰がここにいていいって言ったんだよ。誰に命令されて来てんだよ。土方か? あいつの命令だったらお前何でも聞くもんな。お前馬鹿なの? 忘れたの? 言ったろ、目が見えなくても殺せんだよお前なんか簡単に殺せんだよ、目が見えねえからほんとに殺しちまうぜ」
「沖田さん!」
「出てけよ。聞こえねえのかよ、出てけって言ってんだよ! お前の声なんか聞きたくねえんだよ、はやく、」
 はやく出て行ってくれなければ、その手を握ってしまいそう。
 握って、引いて、抱きしめて、くちづけて、呼べない名前を呼べないとわかっていて何度も呼んでしまいそう。
 開いていても見えない目をきつく閉じる。深い闇の中で、繰り返し繰り返し、夢ともわからない夢を見る。この手がいつか山崎を殺す夢。傍にいれば、傷つけてしまう未来の夢。
「…………俺は、お前が、嫌いなんだよ」
 絞り出すようなその声は、どんな風に山崎に届いただろう。山崎は、どんな顔をしただろう。見えなくてよかった、と少し沖田は安堵した。沖田に触れていた山崎の手が、音もなく静かに離れる。畳を滑る衣擦れの音。
「……すみません、でした……」
 小さく落ちた山崎の声。
 立ちあがる気配。遠ざかる気配。思わず呼びとめそうになって、開いた口から声は出なかった。
 名前は変わらず呼べないまま。
 伸ばそうとわずかに動いたその腕に山崎は気付かなかったのだろう。襖が開く音がして、失礼します、と小さな声。すとん、と閉まった、部屋の入り口。

「…………っ」

 きつく握った拳を目に押し当てて、沖田は蹲るようにして息を殺した。
 これでいい、これでいい。名前を呼べないのは、きっと怖いからだ。呼ぼうと思えば呼べるのに、名前と一緒にたくさんの気持ちが溢れだしそうでそれが怖い。
 好きだとか、愛しているとか、大事にしたいとか、ごめんとか。
 傍にいて、とか。






    +++






 嫌いと言ったその日から山崎は姿を見せなくなった。廊下の声は聞こえるが、それもすぐに遠ざかった。拗ねた声や困った声や笑い声。いつも通りの山崎の声。
 これでいいのだ。これがいい。自分の傍においていればその顔を曇らせるばかりなのだ。そしていつか泣かしてしまう。いつかきっと傷つける。
 だって好きなのだ。
 山崎の意志など無視して、ずっと傍にいて欲しいと懇願したいほど好きなのだ。
 守れないとわかっているのに。
 一番大事にはできないと、わかっているのに。
(……会わなけりゃ、死んじまうと思ってたなァ)
 ぬるくなった手ぬぐいを額に乗せたまま、沖田は口元を歪める。
 大抵こういう人の来ない日には、山崎が様子を見に来たのだが、今はもう、それもない。
(けれど全然、そんなことは、なかった)
 好きで、好きで、好きすぎて、会わなければ死んでしまうと思っていた。
 触れられなければ、気が狂って死んでしまうと思っていた。
 けれど、そんなことはなかった。会わなくなるのなんて簡単だった。嫌いと言うだけでよかったのだ。恋を、捨てた振りをするだけでよかった。
 会わなくたって生きている。遠くに聞こえるあの声が自分のものでなくなっても、熱は引かないがとりあえず、沖田の心臓は動いている。
 死なない。
 死ねない。
(ほら、やっぱり最初から、全部、夢だったんだ)
 恋しくて、恋しすぎて、命に等しいと思ったのは幻だった。
 これできっと捨てられる。
 傍にいなくても大丈夫。
「……お前が、幸せなら、それでいいよ」