夜中にふと目を覚ませば慣れ親しんだ気配が傍にあった。目を開けてもどうせ顔は見えないので眠った振りを続ける。傍に黙って座り込んで、何をしているのだろう。何を考えているのだろう。
 泣いてはいないだろうか。
 山崎は泣き虫なのだ。
 思えば不安になったので、名前を呼ぼうと口を開いた。唇を動かし、四文字。
 声にならない。
 諦めて口を閉じる。
(……、泣いてたって、いいじゃねえか。泣いて、泣いて、傷ついて、俺のことなんか嫌いになればいいんだ)
 そして離れてくれればいい。
 気配を探る。泣いている気配はなかったので、やはり安堵してしまう。心の中で名前を呼ぶ。山崎。山崎。やまざき。


 あの日から名前を呼べなくなった。




    +++




 沖田の異変は士気に関わるということですぐさま緘口令が敷かれ、異変の事実を知っている者は局長、副長、一番隊の一部と監察方の一部に限定されている。当然ながら事情を知る者は隊の中心人物であり多忙を極めているのだから、沖田の見舞いになど来る者は少ないだろうと思われたが、そうでもなかった。
 仕事の合間を縫って、皆が代わる代わる覗きに来る。まるで沖田がどこかへ逃げてはいないか、悪いことをしてはいないかと監視をしているようだ。
「いい加減、うぜえんですけど」
 何度目か、部屋に様子を伺いに来てそのまま室内に居座ってしまった土方に、さすがにうんざりして声をかけた。ばさばさと紙の音がしているから仕事を持ち込んでいるのだろうが、だったら部屋ですればいいのだ。事務仕事をしているときはいつも煙草を吸っているくせに、今はその気配がないことも気味が悪い。病人だからと気をつかうくらいなら、そっとしておいてくれればいいのに。
「ねえ、何しに来てんの」
「あァ? お前が一人じゃかわいそうだから、相手しに来てやってんじゃねえか」
「え、きもい。台風きそう」
「かわいくねえな」
 俺が可愛かったら気味悪ィでしょう、と言えば、違ぇねえ、と笑われる。ぱさり、ぺらり、と紙の音。ペンで何かを書きつける音。
 沖田はひとつ大きく息を吐いて、布団からのそりと起き上がった。長い間横になっていたので少し頭痛がしている。軽く頭を振って、ついでに包帯を取り払った。毎日のように医者が来て丁寧に巻いていくそれは、単なる気休め以上の効果を持たない。包帯をはずせば瞼に外気が触れる。ゆっくりと目を開けたが、そこには暗闇が広がるままだった。
 夢を見そうだ。悪夢ばかり。
 頭痛がする。眠りすぎたのだ。体がわずかに熱を持っているのが分かる。
 黙って見ていたのだろう土方がゆっくりと近づくのがわかった。じっとしていれば、大きな掌が沖田の額にそっと触れる。それがひやりと冷たく、思わず小さく吐息をついた。
「熱、下がんねえな。薬飲んでんのか」
「一応」
「ちゃんと食って、寝て、薬飲んで。さっさと治せよ」
 ぴん、と軽く額を弾かれ、続いて頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。
 ずっと小さな子供になってしまったような錯覚を覚える。沖田は不意に泣きたくなった。
「土方さん」
「どうした」
「土方さん」
「うん?」
 苦笑の気配。優しく頭を叩かれて、鼻の奥がつんと痛む。
 こういうものを、全部、全部、全部きちんと、持っていられるのだったら。
 そのためなら、何も迷うことなどないと、信じていたのに。
「土方さん、土方さん、土方さん」
 立てた膝に顔を埋めながら何度も呼べば、さすがに気味が悪かったのか、何だよ、と呆れたような声を土方が出す。
「どうした、お前。熱で頭おかしくなったか」
「……ちがいまさァ。俺だって、本当に呼びたいのは、土方さんなんかじゃねえもの」
「何だよそれ、ツンデレか」
「………………呼べねえんだ」
 ぽつりと零れた言葉は、小さすぎて土方には聞き取れなかったのだろう。何だ? と聞き返され、沖田は首を横に振る。膝に額を押し当てて、きつく奥歯を噛みしめる。鼻の奥が痛い。泣きそうだ。

 呼びたい名前が、ある。ひとつだけ大事にしたいと生まれて初めて思った名前がある。
 それが今、声にならない。喉に無様に絡まって、音になって外へ出て行かない。唇の動きだけで何度も何度も何度も何度も、なぞるように呼ぼうとするのに、それが少しも、誰にも届かない。自分の耳にも聞こえない。
 呼べなくなってしまった。
 他の名前は呼べるのに。こんなに簡単に呼べるのに。触れても触れられても怖くないのに。
 どうして。

「……土方さん」
「だから、何だよ」
「……姉上と、別れたこと、後悔してますか」
 ぐ、と土方の喉が鳴るのが分かった。
 土方の手がそっと沖田から離れる。大きな溜息。
「……後悔は、してねえよ。俺には与えれなかった幸せが、見つかったこともあったろうしな」
 俺は結局人斬りだから。
 短く言い切って、土方はそれきり黙った。かつて、刀と恋を選ぶとき迷わず刀を選んだ男は、どうして恋を、捨てられたのだろう。
 どうしたら恋を、捨てられるのだろう。
 ず、と沖田の鼻が鳴る。しばらく考えこんでいたのだろう土方は、再び沖田の頭に手を乗せ、ずっと幼い子供にするように、ぐりぐりとその頭を撫でた。
「けどなァ、あれは、女じゃねえし、俺たちと同じだし、お前が怖がることは、ねえんじゃねえか」
 あれがかわいそうだろう。と、わかったようなことを、土方は溜息交じりで言った。
 沖田はばっと顔を上げる。睨みつけたいのに、世界は闇に閉ざされている。泣きたくなって顔が歪む。ぐ、と拳を握って真っ直ぐ土方を殴ろうとしたが、ぱしんとあっさり受け止められる。
「……でも、だって、そんなのっ………頭で分かってたって、どうしようも、ねえだろ……」
 震える沖田の拳を包み込むように握って、土方は小さく溜息をつく。暫くの沈黙の後、そうだなァ、と小さく言った。
「理屈じゃねえなァ」

 傍にいたいと思うことも、傍にいるのが怖いと思うことも。
 それでも恋を、ただそれだけを、選ぶことはできないことも。