あの日からずっと、雨が降り続いている。



 湿気のせいで空気が重たい。山崎は細く酸素を吸い込んでどうにか肺に送り込み、畳の上へ報告書をそっと滑らせた。
「沖田隊長は、小さな子供を抱きかかえるようにして倒れていたそうです。子供はすでに絶命しており、直接の死因は背中の刀傷。手にかけたのは百党の幹部で、これは沖田隊長の刀に敗れています」
 一息にそこまで言って、山崎は溜息のように息を吐き出した。無表情で報告書を捲っていた土方は、血の気の薄い山崎の顔をちらと見て、これもまた溜息をつく。
「総悟がやったってこたァ、ねえのか」
「ないです。あちらの幹部の刀に付着した血液と、子供の血液が一致しました。反対に、沖田隊長の刀から同様の血液は検出されていません」
「……付着した血液ったって、一種類じゃねえだろ。調べたのか?」
 驚きか呆れか、土方がわずかに目を見開く。山崎は自嘲気味に口元をゆがめ、「いけませんか?」と首を傾げた。
 使えるものはすべて使って、普段は必要としない部分まで徹底的に調べ上げた。
 本当は、誰がどういう状況で誰をどう殺したかなど、真選組には関係がない。山崎だって、個人的に興味もない。
 ただ今回は、調べるに足る理由があったから、調べた。それだけだ。
「……最初は俺も、沖田隊長が……沖田さんが、殺したんだと思いました。状況的に、そうなっても不思議じゃなかったんです。こちらには一人も隊士が残ってなくて沖田さんの疲労も相当なもんだったろうし、一口に幹部っつたって、相手は軽いラスボスみたいなもんでしょう? そこに子供がいきなり割って入りでもしたら、無理もないかなって」
「まあ、そうだな」
「だから、そうじゃなかったらいいなって、そうじゃない証拠があればいいなと思って、調べたんですけど…」
 山崎はそこで言葉を切って俯いた。
 窓の外では雨が降り続いている。あの日からずっとだ。湿気を多分に含んだ空気は重たく、呼吸がうまくできない。口を薄く開き、細く吸って、吐く。
 世界を全部闇に沈めてそれで閉ざしてしまう程、もう何も見たくない程、一体何を見たというのだろう。自分の刀が小さな子供の命を切り裂く光景でなければ、一体何を。
 あなたが殺したのではないのだと、その一言で救われてくれればよかったのに。
 膝の上できつくこぶしを握った山崎の頭に、軽く土方の掌が乗った。あやすような優しさでで軽く叩かれて、山崎は唇を噛み締める。
「お前が考えこんだって、仕方ねえだろ」
「だって……何が起こったか調べるのは、俺の領分なんでしょう」
「何が起こったか調べるまでは、やったろ。それで何も出なかったからっていちいち落ち込んでんじゃねえよ。何も出なくても調べて、何も出なかったら次を調べるのが、てめえの仕事だろうが」
 そもそもなァ、と苦々しい声で土方は言う。
「総悟の傷なんて、総悟でなきゃ、わかんねえだろ」

 畳の上に広げられた報告書の白。目に痛いくらいのそれ。
 包帯の色。
 わからなきゃ救えない、という言葉を、かろうじて山崎は飲み込んだ。
 そもそも、沖田が救われたがっているかどうかでさえ、山崎にはわからない。





    +++





 証拠があればいいと思った。
 視界を閉ざしてしまうほど見たくないものを見たのなら、それほどの地獄を見たのなら、もう大丈夫だとなだめてやる材料があればいいと思った。
 小さな子供の死体があったと聞いて、沖田が作った死体かと咄嗟に思った。
 罪のない子供を手にかけて、それで心を閉ざしてしまったのなら、子供が死んだのは沖田のせいではなかったという証拠を見せて、大丈夫だと言ってやればいいと思った。
 その証拠が本当でも嘘でも。
(でも、証拠は本物で、しかもあの状況は……)
 足音をさせないような足の運びで廊下を歩きながら、山崎は溜息をつく。今日も雨はやまないまま、時間はすっかり夜になった。朝も昼もない暗闇の中で、沖田はもう眠ったろうか。
(……勘違いしたとは、思えないんだよなァ)
 沖田はその腕の中に子供を抱いていたという。死体の様子からして、子供は沖田の腕の中で命を失ったのだろう。腕の中で。沖田の傍には敵の死体があった。沖田は敵の命を奪って、それから子供を抱きかかえたのだ。敵を軌って、殺して、傷ついた子供を抱きかかえる。
 沖田の刀がその命を奪ったのではないだろう。
 沖田の刀がもし子供の命を奪っていたなら、その隙に沖田は殺されているはずだ。
 だから、違う。勘違いのしようだってない。たとえ精神的に極限状態だったとはいえ、沖田ほどの手だれが斬ったか斬っていないか判別し損ねるとは思えない。
 では、なぜ。
(……見たくなかったのは、何)
 今更。
 沖田の部屋の前で足を止めた山崎は、そっと中の気配を伺う。朝も昼も夜も床に伏している沖田が動き回っている様子はもちろんない。床の中で起きているのか眠っているのか、さすがにそこまでは判別がつかず、山崎は襖に手をかけた。
 音をさせないように注意しながら、襖を開けて中を伺う。空気はひどくひんやりとしている。薬の匂い。耳を澄ませば規則正しい呼吸が聞こえて、眠っているのだと知れた。
 部屋へ入り込み、襖をぴたりと閉める。灯りの必要がない部屋の中は真っ暗で、雨のせいで月明かりもない。山崎は静かに沖田へと近づき、布団の横に小さく座った。沖田は寝返りも打たず、深く眠っている。眠れている、ということに安堵して、少し触れた額は熱かった。暗がりの中、慌てて枕元にある水で布団の上に落ちていた布を冷やす。かたく絞って額に乗せれば、少し沖田の呼吸が緩やかになったような気がして安心をする。
 包帯は解けていた。無造作に投げ捨てられている。
「……今更、どんな地獄を、見たっていうの」
 瞼に触れたくて頬に触れたくて唇に触れたくて山崎は指を伸ばしかけ、沖田の肌に触れる直前で、どうしても出来ず手をおろした。
 起こしてしまいたくはない。
 起こすのがかわいそうだからとか、眠っている方がいいだろうから、そういうことではない。
 起こしてしまうのが、こわい。
 見たくなかったのは何だ。どんな地獄を見たというのだ。今更。視界を一面赤が染め上げ、死体をよけて道を作るなんて、そんなこと慣れ過ぎて、山崎はもうこわいという感覚を忘れてしまった。沖田だってそうだと思っていた。沖田の方こそそうだと思っていた。
 苦しいのはわかる。悲しいのもわかる。でも、目を塞いでしまうほど、一体何が、こわかったの。
「……ねえ、どうしてそれで、俺をこわがるの」

 竹刀が空気を切り裂いて落ちてくるとき、殺気と同時に浴びせられたのは紛うことなき拒絶だ。怒りではなく、怯えに近い、それ。

 なんで、どうして、なにがあって、ねえ。
 わからなきゃ救えない。治せない。
「救われてくんなきゃ、困るよ……」

 沖田の傷は沖田にしかわからない。救われたがっているのかもわからない。自分にそれができるのかだって山崎にはわからない。
 それでも。震える指を伸ばす。頬に触れる。唇に触れて、目元に触れる。
 救われてくれなきゃ困るのだ。
 全てを遠ざけて辛そうにしている、なんて、そんな沖田を見ていることに、山崎が耐えられないので。