守れるのなら、何でも良かった。




 元より周囲には同年代の子供というものがいなかった。だから当たり前に、友達だっていなかった。作り方も分からなかったし、別段欲しいとも思わなかった。沖田には姉がいたし、姉は美しく優しく、沖田は姉を心底好きだったのでそれでよかった。
 外の世界には興味がなかった。姉は家から遠くへは離れられなかったし、そんな姉を一人置いておく気にはならなかったからだ。自分がいて姉がいて、それでいいじゃないかとすら思っていた。世界にはそれしかなかった。
 姉はそんな弟のことをひどく心配していた。友達も作らず、誰とも遊ばず、自分に付き合い家の中に籠っているなんてよくないといつも言っていた。沖田は聞かなかった。
 そんな沖田に、外の世界を見せたのが近藤だった。

 沖田は刀を握ることを覚えた。刀を握れば筋が良いと褒められて、終いには百年に一度の天才だと褒めそやされた。褒められれば多少なりとも気分がよかったし、近藤が自分を自慢に思うのでますます気分がよかった。
 年は幾分か離れていたが、沖田の「友人」に姉も喜んだ。沖田に外の世界の話を聞かせてくれとせがみ、せがまれるまま沖田は話した。
 大事な世界。手に入れた外の世界。姉も自分が外の世界にあることを望んでいた。何も間違いなどないように思えた。姉のもとの離れることに躊躇いがなかったわけではない。けれど、そこで、残るという選択肢は端から沖田の中に存在しなかった。

 大切で大事な世界。それが守れるなら何でもよかった。

 でも、





    +++





 目を開けたはずだったが、沖田の目の前に広がるのは闇ばかりだった。
 自分が布団に寝かされているのだということは、わかる。体中が重くてうまく力が入らない。ゆっくりと手を持ち上げて、目に触れる。ざらりとした包帯。
(これがあるから、か……?)
 指で辿って結び目を探した。見つけたそれを爪でひっかく。そんなことでほどけるわけがなかったが、どうにも体が上手く動かせない。なんとか両腕を持ち上げて、緩慢な動作で結び目をほどいた。緩んだ締めつけにほっと息をもらし、沖田は慎重に包帯を解く。
 皮膚に空気が触れる。包帯が取れたのだと知れた。
 目は、開いているはずである。
 けれど眼前に広がるのは、途方もない闇。どこまでも、どこまでも、どこまでも暗い、それ。
(……ああ、そうか。俺、目が見えねえんだ……)
 包帯を握ったままの手が、力なく布団に落ちた。もう一度持ち上げて、指先で目元に触れる。目は開いている。傷はないようだ。痛みもない。
 精神的なものだろう、と、医者は言った。
 目立つ外傷もなく、異変は視力の消失のみ。熱が出るのも精神的なものだと医者は言った。
(……変なの。見たくねえもの見たのに、目が見えなくなるって、おかしくねえか。俺の神経どうなってんだ)
 口元を歪めて沖田は笑う。はは、と渇いた笑い声。
 目を開けているはずなのに、世界が暗いので夢が見える。
 繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し寝ても覚めてもあれからずっと沖田を蝕む、あれは悪夢だ。いや、悪夢だろうか。夢だと、言ってしまっても、いいのか。
 血に濡れた黒髪。ひどい色だった。小さな頭は沖田の腕の中でぐったりとして、重たく、それは呼吸をしなかった。流れ続ける赤。止まることを知らないそれ。冷たい皮膚。名前も知らない小さな子供。
 あれを作ったのは、自分だ。
 ぐ、と拳を握って、感情そのままに沖田はそれを振りおろす。薄い布団に沈んだ拳は痺れた感覚を沖田へ返す。ぎり、と血が滲むほど、握って、握って、それでも足りない。
 あれを作ったのは自分だ。
 たとえ殺したのが自分でなくたって。
 守れなかった、気付けなかった、庇えなかった、ただ、ただ、奪うことしかできなかった。少しも。
「……っ」
 奥歯をきつく噛みしめる。叫び出したい声を閉じ込める。飲みこむ。苦しい。

 守れなかった気付けなかった庇えなかった。
 奪うことしかできないと、知っていたけど知りたくなかった。
 自分は守れるのだと思っていた。その気になれば守れるのだと思っていて、守ってやりたいと思っていた。

 唇をそっと開く。動かす。四文字。声にはならない。
 誰にも聞こえない。
 喉が小さく鳴って、嗚咽のようなそれを沖田は懸命に噛み殺した。握った拳を両目にあてる。きつく目を瞑る。同じだ。開いていても閉じていても。同じだ。自分は何ひとつ。

「……ごめん、ごめん、駄目だ、無理だ、ごめん、俺は、」

 守れない。
 血に濡れた黒髪。力の抜けた重い体。
 いつかきっと、山崎もそうなる。
 山崎は優しい。そして山崎は、沖田のことを好いている。大切に思っている。自惚れではなく、沖田はそう、知っている。
 自分の命は沖田のものではないとあれだけ何度も言うくせに、きっと山崎は、沖田を守ろうとするだろう。できるときは、できるだけ、傍にあろうとするだろう。
 理屈ではなくきっと、そうなる。沖田にはわかる。
 自分もそうだから、痛いくらいによくわかる。
(それでも俺にはお前を守れない)
 きっと、そうだ。
 そもそも自分に何かを守ることなんて、できやしないのだ。
 外の世界を愛してしまって、大事な姉を置き去りにした。
 外の世界を愛してしまって、躊躇いもなく刀を取った。
 人を殺した。無数に奪った。相手に道理がない、こちらに道理がある。理由はそれだけでよかった。

 自分はきっと死臭がするだろう。たくさん人を殺してきた。
 後悔したことはないし、これからもするつもりはない。きっとこの先もずっと、たくさんの人を殺していく。それはいい。けれど、もしいつか、それに巻き込んでしまったら? 気付かないうちに、大事な人を手にかけてしまったら?

 あの時判断が一瞬遅れていれば、自分の刀こそがあの小さな命を奪っていた。

 こわい。こわい。自分は汚い。汚れている。それでも刀を捨てたくないだなんて、自分の心は歪んでいる。きっとあの子供は自分を恨むだろう。守れなかった自分を恨むだろう。たくさんの恨みを背負って生きている自覚はあったけれど、それでも今は、怖い。
 傍においてはおけない。


 唇を開いて、もう一度四文字。次いで三文字。どちらも声にならない。喉の奥、絡まったようになって、外へ出て行かない。唇を噛みしめる。



 手に入れた世界を守れるなら手段なんて何でもよかった。
 でも、傷つけたいわけじゃないんだ。