甘い香りがしている。淀んだ空気を薄桃色で染めたような籠った匂いだ。部屋の窓は飾り窓なので外の光は入り込まない。三段積まれた真っ赤な寝具の枕元に置かれた行燈だけが唯一の光源だった。とは言え、行燈というのは形だけのことで、和紙の中にあるのは火皿ではなく電球なので、その明りは心もとないと言うほどでもない。ただ、普通より少し、薄暗い。居心地が悪いような、落ち着くような、相反する気分が土方の中でない交ぜになっている。淫靡、と、この空間を一言で表すとしたら、それが一番正しいだろう。
 しゅる、と高い音が響いた。絹地の布が畳の上を滑った音だ。山崎が、沈黙に耐えかねて座りなおした音でもある。豪奢な着物の裾から、赤い襦袢が見えている。わざとそうしているのか、それとも山崎の着こなし方が悪いのか、土方には判然としない。こういう場所で、相手の女の格好を細部まで観察する、ということがなかったからだ。こういう場所に通わなくなってから久しい、というのも理由のひとつである。もっとも、そうでなくても、今の山崎の格好が正しいかそうでないということは、土方には分からなかったろう。陰間というのが遊女と同じような文化や流行の中で生きているのかどうか、というのは、土方にとって遠く縁のない話だ。陰間の中で、女の格好をして男の相手をする者が多いのかも、土方はよく知らない。この先ずっと、知ることもないだろう。
 なのに今自分は客として大金を積んでここにいる。思えば出来の悪い冗談のようで、思わず笑い声が口をついて出た。沈黙を破ったそれに山崎は過剰に反応し、大げさに肩を揺らした。その顔が少し青褪めているように見えるのは、部屋が薄暗いからだろうか。
 確かめようと腕を伸ばせば、山崎が体を強張らせ息を呑んだ。おかしなことだ。湧きあがる笑いを噛み殺しながら、なるべく神妙な顔を作って土方は山崎の手首を掴む。細くもないが、太くもない。女のようであると言えばそうで、確かに男であると言えばそうでもある。握った皮膚が冷たいのは、部屋の室温が少し低いからだろう。握った手首を軽く引っ張れば、衣擦れの音をさせながら山崎が土方へと近づく。甘い匂いが強くなり、喉を塞ぐこの匂いは部屋に焚かれた香のせいだけではなかったのだと、土方はそこでようやく気付いた。
 近づいた顔を覗き込む。山崎は目を逸らすように、そっと睫毛を伏せた。土方の記憶にあるよりも、幾分か長い。頬に影が落ちている。俯いた顔を下から覗き込むようにすれば、山崎が紅を塗った唇を引き結んだ。掬いあげるようにくちづけ、舌を少し伸ばして薄く紅を舐め取る。手の中に収まったままの手首がびくりと震える感触を、土方は静かに楽しんだ。
 柔く歯を立て、舌を這わせる。ゆっくりと離す瞬間、わざと小さく音を立ててやれば、山崎が軽く頬を染めた。その頬にかかる髪を優しく耳へかけてやる。怯えるようだった山崎の様子が徐々にいつもの、馴れた様子に変わっていく様を、吐息の触れ合いそうな至近距離で土方はじっと見つめた。
 土方さん、と、ほとんど唇の動きだけで山崎が呼んだ。甘いようでもあるし、戸惑いを含んでいるようでもある。怒っているようでもあるし、悲しんでいるようでもある。
 どうした、という声が冷たくなり過ぎないように、土方は多少なりとも気を使った。ここで冷たく言葉を返せば、きっと山崎はまた黙ってしまうだろうと思われたからだった。
 山崎は困ったような目で土方を見上げ、何かを言おうと口を薄く開き、また閉じ、それを三度繰り返し、それから諦めたように緩く首を横に振った。何でもありません、という言葉に続けて、すみません、と謝る。
 何についての謝罪なのかわからないという顔を土方はして見せた。大げさすぎる程にそう装ってから、殊更優しく山崎を抱き寄せる。山崎がほっとしたように息を吐き、体の力を抜いて土方に寄り掛かった。甘えている。懐いている、とも言えるだろう。これは俺のものだ、という昏い征服感が土方の中にはある。
 くちづけをするような優しさで山崎の耳朶に唇を寄せ、土方はその唇に笑みを浮かべながら、低く優しく囁いた。
「もう、誰かに買われたか?」
 視界の端に捉えた山崎の肌がさあ、と血の気を失うのを見て、土方は喉の奥で笑いを噛み殺した。何より得難く美しい。この生き物は自分のものだという、ただそれだけの醜い感情が、土方の中には、ある。





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