何が何だかわからない。ただ、不幸ってのは突然訪れるもんなんだなぁ、なんて思っている。まばたき。立ち上がろうと何度も足掻いた足には、どうにも力が入らないようで、逃げ出すことは疾うの昔に諦めた。動いたら、見つかって殺されるかも知れない。それに気付いてからは、ずっと息も殺していた。息を殺しながら、浅ましい自分を嘲笑うしかなかった。
涙は出ないもんなんだなぁ。目の前に広がる光景の意味が分からない。膝を抱えて身を縮こまらせて、息を殺すので精一杯。ついでに意識も殺してしまえば楽になるのに。まばたき。眼前に転がるのは、死骸だ。眼前に広がるのは死だ。何が何だかわからない。さっきまでこの人たちは、自分と一緒に道を歩き、水を飲み、他愛のないことで笑い声を上げていたのではなかったか。赤い血の色が肌色を汚している。ああ、恐ろしいでなく、気持ちが悪い。苦しくなって大きく息を吸い込んだが最後、血の臭いに吐き気が込み上げた。
懸命に吐き気を堪えながら、口を覆った手にもう片方の手で爪を立てた。声を上げないように。叫び出さないように。狂わないように。生理的な涙がぼろっと零れて、あとはもう、止まらなかった。
嗚咽を噛み殺す。手の甲に歯を立てる。恐ろしい、気持ち悪い。何が。自分が。両親が目の前で殺されて、その骸の前でまだ生きたいと思っている。死にたくない。生き延びたところで行く当てもなく、逃げ延びたところで生きる術もないのに。それでもただ、死にたくない。「こんな風には」。思って再び涙が零れた。ああ、この人たちは、自分を守って死んだのではなかったか。
「…………おかぁさん……」
呼べば生き返るかと、そんなことを思ったわけではなかったが、呼んで生き返るのならば、何度だって呼んだだろう。同じようにして呼びかけた父親も当然起きはしない。起き上がったら起き上がったで、欠けた腕や足、流れ出す血をどうせ自分は恐れるのだろうに。
動かない頭で、それでも意識を手放さないように必死でぐるぐると考える。矛盾。意識を殺してしまえば楽になると知っていて、それでも、死にたくないと足掻く矛盾。気持ちが悪い。建設的なことなど、どんなに考えても何一つ浮かぶわけがなかった。思い出や、そんなものを辿ることも、上手くできなかった。幸せだった? ああ、幸せだった、多分。まったくもって不幸なんてものは人を選ばないのだ。彼らが、自分が、何をした。ただ、人を救うために、命を救うために、力を尽くそうとしただけだ。戦場に届けるはずだった薬は、ばら撒かれ踏み潰されて使い物にはならなかった。
目を閉じれば、涙が零れた。しまった、と思う。目を、閉じてしまえば。一度目を、背けてしまえば。もう、開くことなどできないじゃないか。直視することなど、もう叶わないじゃないか。
殺しているはずの呼吸の音が耳につく。ぎゅう、と身を硬くする。かたかたと震える身体に気付いて、けれどもう、嗤うことはできなかった。
がさり、と、音が聞こえたのはそのときだ。
「おい」
聞こえた声にびくりと身体が揺れた。開けないと思っていた目を開き、声をかけた人物を――――そう、それは「人」だった――――見上げる。そこには男が立っていた。男が持っているのは、刀だ。目に入った瞬間浅ましい意識はすぐさま立ち上がり逃げようと働いたが、力のない足では逃げ出すことはおろか、立ち上がることさえままならなかった。それでも、手を地面に付き腕の力だけでじりじりと後ろに下がる。どん、と背中が何かにぶつかり、もう駄目だ、と息を呑んだ。歯の根が合わない。
「……親か?」
刀を持った男は、転がる骸を一瞥して小さく呟いた。それがどうも自分の問いかけのようだったので、思わず小さく頷く。男は眉を顰めて、ぶつぶつと何かを呟いた。
「おい、お前」
今度ははっきりと向けられた視線に、ひっと息を呑む。軽く溜息を吐いた男は、困ったようにしたしゃがみ込んだ。視線を合わせるためだと気付くのに、しばらくかかった。
「お前、名前は」
「…………ぁ……」
「名前だよ。……そう怯えるんじゃねぇ。何もしねェよ」
俺は人間だ。その言葉に、ああ、と息を吐いた。ようやく呼吸ができた。人間。そうだ。宇宙からやってきた、あの化け物じゃない。人間は、あの化け物の味方をする人間であっても、無関係の人を殺しはしないはずだ。
ならば、この男は自分を殺さない。それに思い至って、安堵のためか止まっていた涙が零れた。男は困ったように頭をかく。
「あー……、俺は、晋助。高杉晋助だ」
涙を手の甲で拭って、震えの止まらないままで声を出す。
「……さがる。……山崎、退……」
「退? へぇ」
おかしそうに笑ったその人は、ぽんと山崎の頭を叩いて言った。
「退いて物事を見極めよ、か。なかなかいい名前じゃねェか」
驚いて目を大きく見開く山崎を覗き込んだ高杉は、
「来いよ。行くとこねぇんだろうが」
その瞳は、なにやら優しい色をしていた。
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