家は医者の家系で、薬の調合を得意としていた。
 両親共に正義感の厚い人で、物心ついたときにはもう、攘夷戦争の為に駆けずり回っていた記憶がある。
 信念を持って生きる人の命を救う援助がしたい。それが両親の持っていた信念だった。
 京へ行こう、と言い出したのは父で、一人で行くと言ったのも父だ。天人の跋扈する江戸に程近い家を出て、未だ多くの若者が命を落としている京へ行くのだと言う。危険だからお前たちは連れて行かない、と父は言った。それに反対したのは母で、母は父を止めるではなく、家族で行こうと主張した。退、ごめんね、と母は言った。お前をここで守るのが母さんの仕事なのだろうけど、母さんは父さんと一緒に、真っ直ぐ戦ってる人を救いたいの。
 残る、という選択肢は元よりなかったが、あってもきっと、自分は一緒に行っただろう。両親を誇りに思っていたし、そばにいたかった。危険なのだと頭では分かっていたが、別に戦場の真ん中へ突っ込むわけでなし、と油断してもいた。
 京へ行って、新しく薬屋を開いて、困ってる人を助けて。今までと何も変わらない。そう思っていた。友達と離れるのは寂しかったが、両親と離れることの方がずっと寂しかった。そして、わくわくもしていた。平穏な日常を離れ、人と違ったことができるかもしれないことに。
 道中、少し道を逸れるけど、と父は躊躇いがちに言った。近くに戦場があるようで、そこで薬が足りず困っているようだ。まさか戦火の中には飛び込まないが、拠点に薬を届けに行くだけならできるだろう。そう言って、すまなそうに笑った。これはお前たちは連れて行けない。今度は母もうなずいた。

「……この先の、道が分かれるところで一度お別れだ。って。じゃあ、温かい料理を用意して待っておくって母さんが言って」
「戦場の近くには、血の気の多くなってる奴がごろごろいるからな。奴らは見境なく人を殺しやがるから、質が悪ィ」
「…………一瞬で、何が起こったか、わかんなくて、おれ、俺の、腕を、母さんが掴んで、……」
 思い出して、山崎の声が引き攣った。その頭を優しく撫でた後、隣を歩く高杉はぐっと手に力を込める。
「無理に思い出すんじゃねェ。泣きたいなら泣いておけ」
 頭に乗せられた手のひらからじんわりと熱が伝わる。喉が痛い。泣いてしまえば楽になるのは分かっていて、目の奥が痛く泣けなかった。泣きたいのに。
「おら、ここだ」
 突然足を止めた高杉に慌てて山崎も足を止める。頭の上の手をどかされて、ひどく物足りない思いがした。
「ここ……?」
 辺りを見回し、目の前の家をもう一度見る。人気のない集落の、人のいない民家だった。誰かがいる気配もない。
「入りな」
「お、お邪魔します」
「遠慮すんな。俺以外誰もいねェよ」
 おずおずと足を踏み入れた山崎に高杉はぞんざいに言葉を放って、囲炉裏の傍にどかりと腰掛ける。躊躇った後、山崎はその向かい側にちょこんと座った。
「俺は攘夷浪士でね」
 その言葉に、山崎は驚いて目を見張る。高杉は一瞬すまなそうな顔をして、山崎から視線を逸らした。傍にあった籠を引き寄せ、中に入っていた林檎と刃物を取り出す。するすると器用に皮を剥きながら、高杉は続けた。
「一応仲間と一緒にいたんだが、面倒なことになったんでばらばらに散って逃げてきた」
 そのうち連絡があるだろうが、それまでは俺一人だ、と。少し唇の端に笑みを浮かべて語りながら、高杉はするすると林檎の皮を剥く。剥き終わったそれを、すっと山崎に差し出した。
「ほら、食いな」
「え……」
「え、じゃねねェよ。そりゃ食欲も湧かねェだろうが、とりあえず食っとけ」
「あ、……ありがとう、ございます」
「ん。何か口に入れて食べてりゃ、人間ってのは安心するもんだ」
 山崎は林檎を受け取り、少し眺めてから口に運ぶ。しゃくり、と音がして、林檎の香りと甘さが口の中に広がった。一口食べればそれが呼び水になり、二口三口と進めていく。高杉はその様子を、何も言わず、ただ面白そうにして見ていた。
 静かに林檎を食べる。しゃくしゃく。その音だけが、静かに響く。
「ごちそうさまでした」
「ん」
 山崎の律儀な礼にうなずいて、高杉は乾いた布を差し出す。べたつく指を拭った山崎は、そこでやっと、ほう、と息を吐いた。
「落ち着いたか?」
「あ、はい」
 山崎の返答に、高杉はにこりと笑う。
「そりゃ良かった。楽にしな。別に取って食やしねェからよ」
「はい、ありがとうございます」
 再び高杉はにこりと笑って、一度大きく伸びをした。そのまま後ろに手をついて窓の外をぼんやり見やる。山崎も、釣られたように窓の外へ視線を移した。
 青い空に白い雲が薄く掛かっていた。こんなに天気が良かったのかと驚いた。
 先程までは、今日はひどい曇りだと思っていたのに。思い返してみれば、両親と道中歩いている間は天気のよさに浮かれていた。それが一瞬にして曇り空。天気はひとつも変わっていないというのに、まったく、本当に、どうして、とそればかりが駆け巡る。
 おかしなことになったものだ。人とは違う善いことをするのだとわくわくしながら両親と歩いていた。旅行のようで浮かれていた。それが暗転。真っ暗な地獄に叩き落されたと思えば、今はこうして名前しか知らない人間と一緒にぼんやり空を見ている。
 両親を弔ってくれたのも彼だった。そういえば、林檎も剥いてもらったな。味は普通の林檎だったが、言われた通り少し安心した。
 二人とも、何も言わない。けれど沈黙は気詰まりではなかった。
 視線を転じて目の前の人を見る。少し乱れた黒い髪。肌はどちらかと言えば白い方だが、薄い色の唇が女性らしさを感じさせずにいる。切れ長の瞳のせいか、きつい印象を感じさせる顔立ち。攘夷浪士、と言った。父が、母が、素晴らしいと言っていて、この人たちを救うことがこの国を救うことになるのだと語って聞かせてくれた人たち。攘夷志士、と自分たちは言っていたが、彼は自分自身を攘夷浪士と名乗った。
 不思議な男だった。一度見たら、目が離せないような、
「……お前」
「あ、は、はい!」
 突然声をかけられて、見ていたことを見咎められたのかと声が高く裏返った。そんな山崎の様子に逆に驚いたのは高杉で、思わず山崎の顔をまじまじと見つめ、それからふっと笑いを零す。
「別に、取って食いやしねェって」
「はぁ……」
「お前、これからどうするんだ?」
 向けられた現実的な問いに、山崎の頭がすっと冷める。
「あ……、あの、俺親戚もいないんで、どうしようかと思ってるんですけど……」
 京で家を貸してくれるはずだった父の古い友人はいるはずだが、山崎一人では連絡の取り方も分からない。京まで行けばあるいは分かるかも知れなかったが、それは途方もないことのように思えた。
「成程。身寄りもねェってわけか」
「はい……」
「なら、まあ、ここに置いてやるよ」
「えっ」
 驚いてばっと顔を上げた山崎に、高杉はふわりと笑う。
「別に、天人共に復讐したいならすればいい。俺たちの敵はアイツ等だからな。まあそうでなくても、どうしたいか決めるまで、ここに居ればいい」
 どうせ俺も、暫くは一人だ。
 そう言って。
「あ、あの、ありがとうございます……でも、」
「お前、料理は作れるか?」
「え? あ、はぁ…作れるというほど作れないですけど……簡単なものなら……」
「じゃあ、お前は料理担当だ。掃除洗濯はどうにかなっても、料理はからきし苦手でね」
「あ……、はい! 頑張ります!」
 気負い大きく頷く山崎の頭を軽く優しく二度ほど叩き、
「代わりに剣を教えてやる。役に立つかはわからねェが、知っておいても損はない」
 ふわりと、優しく、笑う人で、歌うように話す人。
 それが山崎の、高杉に対する印象だった。