甘いだけの砂糖の塊を指で一粒つまみ上げ口に運ぶ。がり、と噛んで口の中に甘さが広がった。ふわり笑って「美味しい」と言えば、傍らに座った男は嬉しそうに笑う。
「そうしてると女みたいだな」
「こういうのが好き?」
首を傾げて笑った山崎に男は下卑た笑みを浮かべ、山崎の肩に手を回す。逆らわず体重を預けるようにしな垂れかかれば、肩を掴んだ指にぐっと力が篭った。反対側の手で顎を持ち上げられ、素直に従う。恥らうように目を伏せれば、くく、と近くで楽しそうな声が響く。
「まだ……日も高いのに……」
「そういうのが好きなんだ、俺は」
近づく身体を弱い力で押し返せば、肩を抱いていた手がするりと腰に回ってそのままぐいと引き寄せられた。それ以上抵抗することなく、山崎は恥らいながら瞼を閉じる。
唇に生暖かい吐息が触れ、湿った感触がぶつかる。緩く口を開けば当然のように蠢く舌が口内に侵入した。ぴちゃぴちゃと音をさせながら蹂躙していくそれに、山崎は時折掠れた吐息を漏らす。
(……馬鹿だなあ)
そっと男の胸を押して、軽く首を振るようにすれば意外にあっさりと唇は開放された。乱れる息を整えながら、濡れた唇を動かして吐息だけで「だめ」と言えば、男の身体が震えるのが分かる。
「また……暫く忙しいの?」
男は山崎の濡れた唇をゆっくりと指の腹で撫でて、ああ、と短く答えた。その息が僅かに荒い。面倒だなあ、という気持ちを押し殺す。
「そうか。残念だな……」
「今からここで可愛がってやるよ」
「うん……でも、今日は俺が無理なんだ。帰らないと、主人に怒られちまうから」
寂しそうに笑って見せて、するりと男から身体を離す。山崎の髪を指で掬いながら、男は未練がましく言った。
「厳しい奉公先なんだろう?やめて、俺たちと一緒に来ないか?」
「うん……」
「あの真選組だって俺たちを出し抜けやしないんだ。ちまちまと会合潰してるが、それくらいじゃあ俺たちは潰されねえ。もっとでかいことやる予定だってある。なあ、一緒に来いよ」
「うん、……」
山崎は顔を伏せて、男の手から髪を奪い返す。曖昧に首を傾げて、じゃあ、と言葉を繋げた。
「次のお仕事が終わったら、俺も一緒に連れていって」
男は嬉しそうに笑って、任せておけと請合う。ありがとうと笑って見せて、手首を握られそうになる前にすっと立ち上がった。
「今日は帰る。俺の主人、本当に怖いんだよ」
そのまま、男の顔を見ずに部屋を後にした。廊下で宿の従業員とすれ違い、お酒はよろしかったんですかと問われたので急用が、と答えてそのまま外に出る。
まだ日は高い。今回は逃げ出せてよかったなあと宿の二階を振り仰ぐ。
ただひたすらに純情そうな奴だった。殺すには忍びないかな、と思っていたので、手を出してくれなくてよかった。手を出させる前にぺらぺらと喋ってくれたのも助かった。
着物の袷から口吻けの最中に抜き取った紙を一枚取り出す。こんなものを馬鹿正直に持ち歩いているくらいだ。悪い奴ではないだろう。頭が悪いだけだ。
「もっとでかいこと、ねえ」
かさりとその紙を丁寧に畳みなおし、着物の袷へ突っ込む。何気ない足取りで遠回りをして、屯所への道を辿った。
やっぱ死ぬかな。あの男も。
残念だとは思わないが、自分のような手合いに引っかかって気の毒だとは少し思う。紙を抜き取ったことがバレはしないだろうが、あの男が生き延びればあの男と度々会っていた自分はかなり怪しまれるだろう。ならばやはり、死んでもらわねば困る気もする。
(まあ、それも全て)
ご主人様の決めることだ。
思えば少しおかしかった。足取りを僅かに軽くして山崎はその主人の元へと帰って行く。懐には、密会の場所を記した手紙が丁寧に隠されている。
+++
屯所に戻れば副長室に部屋の主は居なかった。
市中見廻りか、上との会合か、どこかで事件でもあって引っ張り出されているのか。
勝手に室内に上がりこんで待っていても良かったが、予定が分からない以上いつ帰って来るとも知れない。他の仕事を先に片付けるかと決めて監察方の部屋へ戻ろうと足を向けた。
気配を殺して歩くのは山崎の癖だ。
足音を少しもさせず滑るように廊下を歩いていれば、曲がり角の向こうでなにやら話し声が聞こえた。廊下での雑談は珍しいことではないのでそのまま通り過ぎようと足を進めかけたが、その話し声がやけに密談めいているので結局立ち止まる。
人がわざわざ声を潜めて話していることに耳を欹てるのは良い行いとは言えないが、それこそ山崎の仕事であり、それで何と思われても関係がなかった。聞くべき情報かそうでない情報かは、聞いた後で判断をすれば良い。
気配を殺したまま姿の見えないぎりぎりまで近づき、耳を澄ませる。
「――――――て、気持ち悪くね?」
「あ、分かる。なんか目つきとかな」
「何考えてるかわかんねーよなぁ」
(……なんだ、悪口か)
廊下でひそひそ集まって他人の悪口で盛り上がるとか、どこの女子だ。くだらない、と溜息を付いてそのまま足を進めようとする。悪口一つ、自分に聞かれたところでどうってことないだろう。
「でもよ、山崎さんってさ、」
しかし続いて聞こえたその言葉で、山崎は再び足を止めるはめになった。
(何だ、俺のか)
自分の悪口で盛り上がっているところに出て行っても悪いだろうなあ、と思案するが、ここを通らなければ自室に帰れない。帰れなければ仕事もできない。副長室に戻るかな、と迷っていれば、その間にも話はどんどん進んでいく。
「優秀だっつーけどさ、情報とか細かすぎて、気持ち悪くね」
「あ!そうそう、俺も思った、それ。普通、なあ」
「細かすぎるよな。名前とか癖とかさ、何でそんなこと知ってんだって感じじゃね?」
それは君たちに出来ない捜査の仕方をしているからだよ。
出て行って教えてやりたくもなったが、さすがに大人気ないので堪える。声からして、入って間もない新人隊士だろう。この屯所内、どこで監察が耳を澄ませているかわからない、ということさえ知りもしない。
「逆スパイ、とか」
「おま、滅多なこと言うなよ」
「でもさ、さすがに細かすぎねえ?」
「はずれないしなあ」
「捨て駒の情報だけ教えて、代わりにうちの情報パクってる、とか」
「えー、やべえじゃんそれ。監察にスパイとかよ」
「やべーよな。マジだったら」
思いつきに興奮をしたのか、どんどん声高になっていっている自分たちに気付きもしない。山崎は呆れて溜息を付いた。逆スパイとは、成程想像力にだけは富んでいる。
(普通にスパイをしてるっていう発想は、ないのかね)
発想がもう漫画の読みすぎだ。が、それも山崎に対する不信感がそうさせるのだろう。特に新人隊士ともなれば、平服を着ているくせに常に副長の傍仕えをしている山崎など邪魔で仕方ないに違いない。
しかしいよいよ出にくくなった。困ったなあ、と首を捻った山崎の首筋に、ひやりと冷たいものが突然触れた。
「ひぃっ!」
「てめー、こんなとこで何サボってんだ?」
聞こえた声に勢い良く振り向けば、冷たい缶コーヒーを持った土方が立っている。
「副長。探してたんですよ」
どこ言ってたんですか。言えば、山崎を驚かせた缶コーヒーを山崎の手に放り、
「買ってきた」
と短く答えた。
「くれるんスか」
「それはやるから、豆から挽いたのお前が淹れろ」
「横暴だなあ」
「お前の淹れるのが旨いっつー褒め言葉だ。有難がっとけ」
「はいよ」
笑いながら有難くコーヒーを受け取る。副長室戻りましょうよ、と声をかけるより先に、土方が曲がり角の先をひょいと覗き込んでしまった。隠れていた意味がなくなったなあと困って山崎も顔を覗かせれば、逃げるでもなくその場に固まったままの隊士3人が、怯えるような顔つきでこちらを見ていた。
「なーにやってんだ、テメーら」
「え、いや、いえ!」
「遊んでねえでさっさと仕事しろ」
「す、すいませんでしたアアアアァァ」
ひ、と息を呑んだ3人はばたばたと足音も荒くその場を走り去っていく。土方は首を傾げた。
「なんだぁ、あいつら」
特に凄んだわけでもないのに。そう不思議がる土方に、何でしょうねえと相槌を打ちながら、山崎は軽く肩を竦めた。
少し目が合って笑っただけで逃げ出すほど怯えられているのか、これは。
逆スパイという話も、その場の冗談では済まないのかもなあと思う。情報を外へ漏らせない閉鎖的な空間では、噂は勝手に一人歩きしがちだ。
誰に疑われてもどう思われても構いはしないが。
(この人だけが信じてくれれば、それでいい)
見上げた山崎に眉を上げて、何だ、と怪訝そうに言うので、いいえと答えて先に歩き出す。
「お茶請けは何がいいですか?」
そんな他愛もないことを聞きながら、副長室への慣れた道を隣に並んで真っ直ぐ歩いた。
せんべいにマヨ付けたらうめーと思うんだけど、などと下らないことを言っている傍らの人が信じて何も言わずにおいてくれるのなら、それでいいのだ。他の誰に何を言われても、何をされても構いはしない。
俺は絶対食べません、と笑いながら歩く。手に握った缶コーヒーが結露して、手を少しずつ濡らしていく。すべり落とさないようにしっかりと握って、山崎はそっと目を伏せた。
(でも、この人にだけは)
いろんなことを知られたくはないなァ、と、そう思って。
他の誰に何を言われても暴き立てられてもどうでもいいが、この人にだけは、何も知られたくないなァと。
数刻前には艶やかに濡れていた唇を、自分の歯でそっと噛んだ。
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