「妙な噂があるのを、ご存知ですかィ?」
柱に軽く背を預けて、突然沖田がそんなことを言った。
「あァ?」
しゅる、とスカーフを首に巻きつけながら、土方は眉を上げる。
「何の噂だ」
「山崎の」
噂でさァ、と言う沖田は土方の顔を見ず、雨の降りそうな遠くの空に目を向けている。
「……どんな噂だ」
「攘夷派と繋がってるとか、実は攘夷派のスパイだとか、隊内で評価を得るために、過激攘夷派と情報交換してるとか」
「……ばかばかしい」
「俺もそう思いますがね。噂ってのは、一人歩きすると怖いもんですよ」
特にあいつは、嫌われてるから。
独り言のように沖田は言って、ちらりと一度土方の顔を見た。
「嫌われてる?」
「知らねェとは、言わせませんぜ。だってあいつは監察だ。監察が、そうやすやすと隊士に好かれるわけがないでしょう」
それにあいつは優秀だから。と、何もかも分かっているような振りで沖田は言う。
「……だとしても、だ。あいつが攘夷派と繋がってるなんてそんな、くだらねェ噂言い出したのは誰だ。監察なんだから別に攘夷派に取り入ってみせるのは普通だろ」
「そうなんですがね」
「言い出した奴連れて来い。ことによっては流言の咎で切腹だぞ」
「……それ、本気で言ってんですか」
心底呆れた、という顔を、沖田はした。もうこいつではどうにもならない、とでも言うように馬鹿にしきった顔である。
「監察は確かに敵側に取り入って情報持ってくるのも仕事ですがね。上司のアンタがその内容を詳しく把握してないことに問題があるんでさァ」
「そんなのは、仕事のことだ。余人に関係ねェだろ」
「だからあんたはバカなんだ。いっくら仕事のことでもね、山崎がああも好き勝手に動いて、そんで優秀すぎる情報を持って帰ってくるとなったら、面白くない奴も、気味悪がる奴もいるんですよ」
「知ったことか」
「……アンタはもっと、自分の影響力を自覚してくだせェ。間違っても、噂の出所を突き止めて斬るとか、そういうことはもう二度と、口にしないでくだせェよ。それが誰かの耳に入ったら、ますます山崎の立場が悪くなる」
「何で」
「何で、って」
沖田はわざとらしいくらい大きなため息を吐いて、嫌そうな顔で土方を見た。
呆れるよりももっと、突き放したような顔をしている。
「これが山崎じゃなかったら。アンタは絶対、噂の出所なんか気にしない。噂であろうとなかろうと、そんな話が出たことが罪で、アンタは噂の対象を斬るでしょうよ。ここはそういうところでしょう」
「…………」
「無闇にあいつばっか構うから、あいつは隊内の嫌われ者だ」
ふい、と土方から顔を逸らして零した沖田の言葉は、どこか悲痛な響きを持っていた。空気が重く、息苦しい。
「嫉妬か、総悟」
わざと鼻で笑うように、からかうようにして土方が言えば、沖田はいよいよ嫌そうな顔をして、柱に凭れていた体を起こした。土方の顔をそれ以上見ようともせず、するりとどこかへ言ってしまう。
廊下を曲がる直前で、
「土方なんか死んじまえええええええええええ!」
と大音声で叫んだ。角を曲がってもまだ、気持ち悪ィんだよ死ねよオオオオオォォと叫んでいる。
きーん、と響くその声を耳を塞いでやり過ごし、土方はいつの間にか止まっていた手を動かして隊服の上着に腕を通した。
(俺があいつを構うから、それであいつの立場が悪くなる?)
は、と軽く笑う。馬鹿にされるべきは、どちらの方だ。
(俺があいつを特別扱いしてるとか、ンなことあるわけねェだろ)
好き勝手に仕事をさせているのは、それで山崎が優秀だからだ。自分が細かく指示をするよりもずっと大きな情報を抱えて戻ってくるからだ。
しかもその情報には、滅多にはずれがない。他の監察の知りえない情報まで深く盗んでくることができる。
その手段など、土方にとっては関係のないことだった。潜入操作のひとつやふたつ、上手くこなせば誰でも山崎ほどの仕事はできるのだ。
(……発想が幼稚なんだよ)
スパイだとかどうだとか。そんなこと、あるはずがないのに。
山崎の目を見ればわかる、と土方は信じている。誰が何と言おうと、山崎が自分を見る目つきが、すべてを物語っている、と思っている。
剣客は、計算で動いてはいけない。最終的に自分の身を助けるのは勘だ。そして土方は、自分の勘はするどいのだと思っている。
その勘が、山崎を疑いもしないのだ。
土方にとってはそれでいい。
他の誰が何を言っても、それだけで、いいことなのだけれど。
+++
(し、くじった……っ)
月のない夜道、山崎の駆ける気配だけがすり抜けていく。
足音こそ立てないが、完全に気配を消し去る配慮もできない。濃厚な血の匂いが路地を抜けていくが、山崎自身の鼻はとっくに麻痺してしまっている。
人気のない大通りを走りぬけ、角を曲がった路地裏で山崎はやっと足を止めた。
塀に体を預けるようにしてずるずると座り込んだ。その拍子にぬるりとした感触が肌を滑って、山崎は顔を顰める。
(これは……やばいな)
肩で息をしながら、山崎は自分の傷をそっと確かめた。利き腕だ。深い、が、死ぬほどではない。今から屯所に帰って治療をすれば、どうということもないだろう。
(でも、)
帰れないよなァ、と天を仰ぐ。曇り空に月はない。いっそ、雨でも降ってくれたらいいのだけれど、と思ってため息を吐いた。
何となく、嫌な予感はしていたのだ。
先日の那須野屋での捕り物から始まった件は、今夜の探索をもってひとまず終了するはずだった。
小物からじわじわと小さな会合を繰り返すのに紛れるようにして、ひっそり行われていた計画がある。武器を集め人を集め、武力蜂起をしようというたちの悪い連中だ。それを山崎は、ときには商人に化けて、ときには情夫になって、体を売って、大元まで近づいたのだが。
(まぁ……仕方ないか)
結構派手に殺してきた、という自覚はある。
毒でも針でも使いようはあったが、わざと派手に殺したのは、相手を焦らせるためともうひとつ、自分の憂さを晴らすためだ。
男に抱かれて情報を得ている自分を、仕事だからと正当化するためだ。殺す相手だから、と自分を納得させるためだ。
相手を焦らすことには成功した。集会の予定は、一番最初にネタを掴んだときからどんどん周期が早くなった。しかし。
(これ、どうしよう)
山崎はほとんど泣きそうな気持ちで、自分の体を両腕で抱きしめた。
夜風が、露になった肌を撫でて寒い。
ぬるりと肌を滑るのは、自分の血と返り血と、誰のものともしれない体液だ。
着物はすでにぼろぼろに避け、体はべたべたと汚れている。
情事の最中人は一番無防備になるからとこの方法を選んでいたが、しかしそれは、山崎自身にも同じことだった。
行為自体には溺れなくても、体の自由が簡単に利かないことに変わりはない。
「どうしよう……」
負った傷口から血がどんどん流れ出している。
このままここに座っていても、自体は少しも好転しない。姿の見えた敵は全部斬り殺して来たが、それで安心できるわけではない。
むしろ、一刻も早く報告を済ませ、すぐにでも討ち入りの準備をしなければならない。
「…………どうしよう」
震える声が、自分の耳に泣いているように聞こえて、山崎は大きく頭を振った。
「……帰らなきゃ」
帰って、とりあえず体を清めて、怪我の治療をして、報告をして。
こんな様子を誰かに見られたら、何があったのかすぐに分かってしまうだろう。
山崎が今まで、どんな風に仕事をしていたのか、すべて分かってしまうだろう。
(どうか、)
自分を叱咤し立ち上がって、ずるずると山崎は屯所への道を歩く。
(どうか誰にも)
知れたらすぐに噂になるだろう。
こぞって皆、山崎を蔑むだろう。
その話は、土方の耳にも入るだろう。
きっと土方も、蔑むような目で、山崎を見るだろう。
あるいはもう二度と、言葉もかけてくれないかも知れない。土方は、こそこそとすることを嫌う。人に媚びてみせることを嫌う。妙なところで潔癖なのだ。山崎が、男に抱かれることで情報を得ていたと知ったら、きっと嫌悪するだろう。
(どうか、あの人にだけは)
何も知られませんように。
祈るように、思っている。
+++
「分かってますか、土方さん」
と、その晩食事を終えたあと、沖田は釘を刺すように言った。
「この噂は、まず士気に関わります。アンタだって分かってんでしょう」
沖田が苛々と言うのは、山崎を心配してのことだと、土方にだって分かっている。
噂が出たら、それが本当か否かに関わらずその段階で処断する。それがこの組織の決まりだ。こと、敵に通じているという噂であっては尚更。
これ以上土方が放っておいて噂が先行するようであれば、どうなるか分からない。
誰か、沖田のように山崎に好意的な者以外が噂を土方に告げる前に、体裁を取り繕わなければならないのだ。
「自分の持ち物の管理は、自分でしなせェよ。いまどき、ガキだって知ってらァ」
(……つったって)
どうしろと言うのだ、と伝染した苛々を持て余しながら、土方はぎしりと廊下を鳴らす。
(俺が、把握していればいいのか)
どうやって潜り込んで、どうやって情報を得ているか。それを土方が把握して、土方の指示だということにすれば、疑われずにすむのか。
あくまで副長命令である、という形にすることが重要なのだという。
馬鹿馬鹿しいこと限りない。
(まあ、聞くくらいはしてもいいか)
確かに山崎の持って帰る情報は細かすぎた。よく調べたなと驚き目を瞠るものでもある。
どうやって得ている情報か、知っておくのも悪くはない、と土方は山崎の部屋の前で足を止めた。
明かりがついている。
今日はもう戻っているのか、と少し意外だった。出て行く、と聞いていたような気がする。
「山崎ィ、入るぞ」
一応一声かけてから、山崎の応えを待たず、土方は唐紙をすっと開けた。
土方が部屋を覗き込んだのと、山崎の「待ってください」という焦ったような声が響いたのが、ほぼ、同時。
前 次