ばれないように足音を消して気配をどうにか殺して、やっと自室にたどり着いたときにはすでに精根尽き果てていた。
 道々に血が落ちて跡を作ってしまわないように注意はしたが、廊下はもしかしたら少し汚れてしまっただろうか。後で確認して始末をしておかなければいけないな、と考えながら、山崎は畳の上に座り込んだ。
 動けない。
 いっそ倒れてしまいたい。
 どれくらいの血が失われたのか分からないが、上手く頭が回らなかった。部屋に戻ってきて安心をしたのか、先ほどよりも痛みがひどい。
(まずは……)
 座り込んだまま、はたらかない頭で懸命に考える。
(まずは、何から)
 汚れた体を拭うのが先だろうか。傷の手当が先だろうか。それすらも咄嗟に判断できない。
 裂いた布で簡単に縛った腕は、止血の意味をあまり果たしてはいなかった。一度止血をしなおして、それから体を洗って、その上で治療をしようか。とにかく早く、体の汚れを消し去ってしまいたい。それさえなければどうとでもなるのだ。
 どうにかそこまで判断し、山崎は止血をするためによろよろと立ち上がった。力の入らない体を叱咤して箪笥を漁り、適当な布でもって傷口の上を縛る。一人でするのだから、上手く力が入らない。
 それでもどうにか腕を縛り終えた頃には、再び座り込んでしまっていた。
 らしくなく、動揺しているのかも知れない。
 のろのろと手を動かして、山崎は自分の掌を見つめる。赤く血のこびり付いた手が、小刻みに震えている。
(……血の、匂いがする)
 血と、精液と、汗と、何かに塗れた自分の体に怖気が走る。
 恐ろしくて、おそろしくて、吐き気がする。
「…………ッ」
 震える手で無残に裂かれ乱れた着物をまさぐった。帯の間から引っ張り出した紙を震える指で広げる。
 人の名前が羅列してある。連判状だ。字を指で辿って、山崎は安堵の笑みを零した。
(大丈夫、これは、副長のためになることだ。大丈夫、何一つ、怖いことなんて……)
 ほっとした山崎が紙を元のように丁寧にたたもうとした瞬間、よく知った気配が廊下を近づき、それが部屋の前でぴたりと止まったのに気づいた。
 ざあ、と血の気が引いた。
 真っ青になった山崎の耳に、部屋の外から聞きなれた声が届く。

「山崎、入るぞ」

 静止の声は、間に合わなかった。
 山崎の手から、白い紙がはらりと滑り落ちた。




    +++




「……山崎?」
 山崎の部屋を覗き込んだ土方は、踏み入ろうとした足を止めた。
 間の抜けた問いかけが自分の唇からこぼれるのを、どこか他人事のように聞いている。
「お前、それどうし……」
「……ッ」
 一歩踏み出した土方の動きに、山崎が喉を引き攣らせる。身を縮めるようにして土方を見る山崎の目が、いっぱいに見開かれている。
 着物は裂け、乱れ、返り血で汚れていた。
 髪も顔も汚れ、いつもこぎれいにしている山崎の面影がなかった。
 びくりとその体を縮めるたびに、ほとんど意味を成していない着物の裾から露になる肌が、血と、それ以外の何かで汚れている。
 けれどそんな尋常ならざる山崎の様子より、土方の目を瞠らせたのは右腕に出来た傷だった。
「その、腕の傷」
「…………」
「どうした。何があった」
「…………」
「山崎」
 土方の言葉に、山崎は答えないまま首を振る。きつく噛み締めている唇が、痛々しいほど赤く歪んでいる。
「お前、今日、どこに行ってた」
「…………」
「誰にやられた。言え!」
「……っ」
 荒げた声に体を硬くした山崎が、激しく首を横に振る。土方が一歩近づけば、合わせるように山崎の体が後ろに下がった。
「……いやです」
「山崎?」
「いやですおねがいこないで」
「おい、山崎」
 膝をつき、山崎の顔を覗き込もうとした土方に山崎が体を震わせる。逃げるようにずるずると後ろに下がりながら山崎は首を振り続けた。ぐしゃぐしゃになった髪が、ぱさぱさと音を立てて山崎の血塗れた頬を打つ。
「お、おねがいこないで……っ、来ないでください、みないでください、お願い、おねがいです副長、何も、なにもみないでください、俺を、おれを、おねがいします」
 ずるずると下がっていた山崎が、壁にその背をぶつけて、絶望したような顔をした。
 土方の顔を一度見上げ、顔を大きく歪ませる。
「ごめんなさい、ごめんなさい見ないでください、おれを見ないで、お願い、お願いします、副長、ごめんなさい、違うんです、おれは、おれ、」
 言葉を詰まらせた山崎が、泣き出すようにその顔を両手で覆った。
 その手が血で汚れている。
 壊れたように繰り返し、ごめんなさいと言っている山崎を見つめながら、何人斬ったんだろうなぁとどうでもいいことが土方は気になった。
 何人斬ったのか。どうやって斬ったのか。どうやって斬られたのか。誰に斬られたのか。
 山崎の様子に混乱する頭の片隅で、そればかりが気になった。
「山崎」
 山崎の震える声が、絶えず鼓膜を振動させ続ける。
「山崎」
 逃げ場のない山崎が、土方の呼びかけから逃げるように身を捩った。
 まくれ上がった着物の裾から覗く足に、白い筋が伝い落ちている。
 部屋の電気に照らされた白い肌に、噛み傷のような鬱血が残っているのが覗いている。
「山崎ッ」
 思わず声を荒げた土方に、山崎は反射的に顔を上げた。
 じり、と山崎に近づいた土方に、山崎はひっ、と喉を震わせる。
「……大丈夫だ。殴りやしねぇよ。怒ってるわけでもねぇ。何謝ってんだか知らねぇが、落ち着け。な?」
 怯えている、というが正しい山崎の様子を見て、土方は殊更優しく声をかけた。
 落ち着かせるようにゆっくりとした動作で体を近づける。山崎は一瞬逃げようと腕を動かしかけたが、背中はすでに壁にぶつかっていて、逃げる場所などどこにもない。
「何があったか知らねぇが、お前、それ、傷の手当をしなきゃならねぇだろ」
 それ、と右腕を示せば、山崎はおずおずとそちらを見る。傷口からは、再び血が滲んでいた。
「報告は後でいいから、まずはそれをどうにかしろ」
「…………」
「利き腕じゃ、やりづれぇだろ。仕方ねぇから俺が、」
「触らないでください!」
 悲痛な声が響いて、伸ばした土方の腕を山崎が跳ね除けた。
「おい、山崎」
「さ、わらないでください、お願いですから、おねがいですから副長は、もう、おねがいします、見ないでください、触らないでください」
「何だァそりゃ」
「お願いです。お願いですから。……傷の手当はひとりでできます。大丈夫です」
「つったって、それは」
「大丈夫ですから! ……だからもう、放っておいてください。お願いです」
「山崎」
「おねがいです、お願いですから、……お願いします、忘れてください、全部、見たこと全部忘れてください、お願いです、何にもなかったんです、大丈夫です、お願いします、俺は、副長にだけは、」
 逃げ場もないのに、それでも土方から逃げるように山崎は身を捩る。
 その腕を思わず掴もうとした土方の顔に、山崎の振り上げた手が当たった。
「……あ、」
 長くきれいに整えられた山崎の爪が、土方の目の下を薄く切り裂く。
 山崎の抵抗に驚き動きを止めた土方は、かすかな痛みを目の下に感じて指でそっと触れた。
 じわりと薄く血が滲む。
「あ、あ、あ、」
 それを見て、山崎が目を大きく見開いた。
 意味のない言葉を口から零しながら、怯えたように首を振る。
「あ、ああ、あ、あ」
「……大丈夫だ、掠っただけだろ」
「ご、ごめんなさ、ごめんなさい、ご、ごめんなさ、」
「俺が、悪かった。お前がいいなら、自分で手当てしろ。ただし、明日になったら医者に診てもらえ」
「副長、俺、」
「……じゃあな」
 すっと立ち上がった土方を、山崎は縋るような目で見上げた。
 先ほどまで逃げようとしていたくせに、今にも追いすがらんばかりである。
「おやすみ」
 そんな山崎を一瞥して、土方は廊下へ出た。唐紙を、わざと音を立てて閉める。
 部屋の中から、すすり泣く様な声が聞こえた。
 本当に泣いているのか、震えながら声を零しているだけなのか、分からない。
 土方は山崎のつけた傷口を指で撫で、浮かんだ血を掬う。
「……畜生、」
 山崎の震える声が聞こえなくなるまで廊下を歩き、部屋の明かりがすっかり遠ざかった辺りで土方は足を止めた。
 そのまま壁伝いにずるずると座り込む。
 冷えた廊下が肌に冷たい。爪で切り裂かれた傷口だけ、じりじりと熱い。
「何だってんだ、……糞」
 低く呻いて、腕で顔を覆った。

 山崎の震える声が耳から離れず、染まった肌が脳裏から消えない。
 払われた腕の痛みが、切り裂かれた肌の痛みが、ちっとも心から消えてくれなかった。