人の視線が、痛いような気がする。

 山崎は嫌われている。そして、ある意味恐れられてもいるから、隊内にあって人の視線を感じることはあまりない。普段は、隊士の方から視線を逸らしていくからだ。
 なのに今日は、人の視線が少し痛い気がする。
(これは、ばれたかな)
 山崎はひとつ息を吐いて、副長室へと進む廊下をするすると歩いた。
 自分で半端に手当てをした傷口が痛む。今斬りかかられたら、もしかしたら死ぬかもしれないな、と弱気なことを思って少し笑った。そんな山崎を、隊士が気味悪そうに見ながら通り過ぎていく。
(……もうどうでもいい)
 昨日は結局。体を清めて手当てをして、玄関から部屋へと落ちていた血の跡を拭って、すべて始末はひとりきりで終えてしまった。都合のいいことに夜半から雨が降り、外にもし何か残っていたとしても、洗い流されてしまっただろう。
 だから誰に知られているとも思えなかったが、人の目はどこにあるかわからないので、もしかしたら誰かに見られていたのかも知れない。あるいは、唯一山崎の惨状を目撃した上司が、それを誰かに漏らしたのかも知れない。
(どうでもいい。もう)
 けれど、どうであったとしても、もう山崎にはどうでもよかった。
 音を立てず廊下を歩きながら、目を伏せる。
 土方に見られた。それだけが山崎の胸のうちにある。見られた。知られた。それが事実として揺るがないのなら、あとのことはもうどうでもよかった。その事実が覆らないのなら、他の何にも意味はない。

 見られた。知られた。そして、傷つけた。

 山崎は自分の指を見つめる。血が滲むほど短く切られた爪は、もうこれで、誰の肌を切り裂くこともないだろう。
(……汚したく、なかったんだ)
 触れられたくなかったんだ。そう言い訳をして、山崎は足を止めた。
 副長室、と書かれたプレートを見上げる。
 ゆっくりとひとつ深呼吸をして、声をかけようと思ったそのとき、中から話し声がするのに気づいて開きかけた口を閉じた。





    +++





「処断するべきでしょう」
「……お前らの言い分はわかった。あとはこちらで調べる」
「新人隊士の中には噂を信じ、動揺する者が出ています。幹部がそれならば、と、敵に内通するものも出てくるでしょう。早めのご決断を」
「考えておこう」
「副長!」
「…………」
「処断していただきます。我々の士気に関わりましょう」
「それは、お前らが決めることじゃねェ」
「切腹」
「…………」
「あるいは、断首」
「……何度も同じことを言わすんじゃねェ。それを決めるのはこっちの仕事だ。テメェらの言い分は確かに聞いた。調査もしよう。それ以上、口出しをするんじゃねぇ」
「副長!」
「聞こえねェのか! わァったらさっさと出ていけ!」
 かち、と土方の手元で鯉口を切る音がして、そこで初めて土方ににじりよっていた隊士は顔を白くさせた。
 土方の顔は静かだ。怒気が噴出す鬼のような顔ではない。しかし、その静かな顔で静かに鯉口を切るその様が、ようやく隊士に鬼の副長の異名を思い出させたようだった。
「し、失礼しました」
 ひとつ頭を下げ隊士は逃げるような勢いで立ち上がった。くるりと踵を返し、足早に退室していく。
「…………」
 これで、四人目。
 今日になってから土方のところへ持ち込まれた陳情だ。どうせ下級隊士が結託をして、陳情しに行こうという話にでもなったのだろうが、四人。

 監察部山崎退の攘夷派への密通について。

(成程。嫌われてるってェのは)
 本当だったようだな、と土方は煙草に火をつけて、深く煙を吸い込んだ。
 さしたる証拠があるわけでもない。目立って問題があるわけでもない。しかし四人。放っておけば、これは確かに士気に関わるだろう。
(……糞、)
 胸の中で毒づいて、土方はまだ火をつけたばかりの煙草を灰皿へ押し付けた。
(切腹? 断首? 冗談じゃねェ)
 苛々と首を振る。冗談じゃない。そんなこと、してたまるものか。
 今、監察部に山崎ほどの動きができる者はいない。動きの迅速さ、情報の的確さ、そして何より副長である土方への忠誠心。どれを取っても、山崎に勝るものは隊内にひとりもいなかった。
(……これは、私情じゃねえ)
 断じて、個人的感情で庇いたてをしているわけではない。
 土方は目を閉じた。額に手を当てる。頭痛が昨夜から治まらない。
 目を閉じると浮かぶのは、昨日見た山崎の姿だ。
 見ないでくれと悲痛に叫んだ、痛々しい姿だ。
(密通しているわけじゃない。裏切りでもなんでもない。あれは、)
 確かに房術は、諜報活動の手段の一つだ。相手の懐へ飛び込み上手くすれば心を取れるので、大きな情報は確かに手に入れやすいだろう。
 好きにやれ、と土方は言った。山崎は、それを守っただけだ。
(……だったら何で、)
 あんな顔をするのだ。あんな声で、拒絶をするのだ。
 髪をぐしゃぐしゃとかき回す。再び新しい煙草に火をつけようと手を伸ばしたところで、部屋の外から静かな声がかかった。


「副長」
「…………」
「山崎です。よろしいですか」
「……おう、入れ」
 火をつけようとしていた煙草を机の上に放って、土方は変わりに筆を取った。
 書面を広げてそちらへと視線を落とす。
 背後でするりと唐紙が開いて、山崎の気配が忍び込んだ。
「昨夜の」
「…………」
「報告が遅くなって、申し訳ありませんでした。連判状を」
「見つけたか」
「はい」
 どうやって。と思わず尋ねかけ、土方は口を噤む。
 山崎の声は淡々と、調べたことについて説明していく。いつも通りの声音で、いつも通りの山崎だ。
 あるいは、昨夜のことは夢だったろうか、と馬鹿なことを考えかけて、土方は己の目の下にある傷にそっと触れた。浅いそれは、赤く細い線になって残っている。
「明後日、となっていますが、計画が前倒しになっている可能性があります」
「そうか」
「はい」
「……わかった。ご苦労」
 いつものように、と言い聞かせて振り向くまで、土方は情けないことに深呼吸をしなければならなかった。
 振り向いて、連判状を見る。山崎は顔を伏せていて、表情はわからない。土方はそれを覗き込むどころか、俯く山崎の姿を直視することもままならない。
 山崎の膝の上で行儀よくそろえられている手の、指先が、不自然に赤かった。
(何だ? ……爪が、)
 よく見ようとして思わず手を伸ばしかける。短くなった爪が赤く飾るその指先を捕らえようとした瞬間、
「切腹ですか」
 と山崎が口を開いた。
「……何がだ」
「すみません。さっき外で、話を聞いてしまいました」
「……くだらねぇ噂だ。お前が気にすることじゃない」
「でも、」
 ふ、と山崎が息をついた。
 脳裏に昨夜の山崎の姿がよぎって、土方は目を逸らす。
「お前は別に、何もしてねェだろ。マジメに仕事してるだけだ」
 そう、真面目に仕事をしているだけだ。もっとも効率のいいやり方で、土方の役に立つように働いているだけだ。
 誰よりも優秀に働いて、成果を残しているだけだ。
 もしそれで何か噂が立つようなことがあったとしても、それは僻みでしかないだろう。
 山崎が責められる。そんなことがあるとしたら、その原因となるのは俺だろう、というのは、傲慢な考えだろうか。
「副長」
 苛々と奥歯を噛む土方の耳に届く山崎の声が、静かで穏やかだ。
「土方さん」
 名前を呼ばれて、顔を見ずにはいられなかった。
 けれど、視線を動かして山崎の顔を直視するのには、やはり、二呼吸ほどの間が必要だった。
 ゆっくり首をめぐらした土方の視線が、土方をまっすぐ見ている山崎の視線と絡む。
 膝の上に揃えられた指先に、血が滲んでいる。
「いいですよ。俺は別に」
「……何が」
「介錯人は、俺が、選べるんでしょう。そしたら俺は」
 絡ませていた視線を山崎の方が先に逸らして、目を伏せてしまう。
 唇に薄く笑みが乗っていて、それが、土方の目にはひどく不自然に映る。
「俺は、あなたを選ぶから。土方さんが介錯してくれるなら、俺は、いいですよ」
「山崎」
「その方が、いいかも知れません。噂が副長の耳に届くほどなら、俺は処断されるべきでしょう」
「噂は噂だ。テメェは攘夷派と、内通してなんかいねェだろ。だったら問題は」
「噂が出ればそれ自体が局中法度に抵触します。噂が出れば、首が飛ぶ」
「……」
「そうでしょう?」
 目を伏せて、薄く笑っている山崎が、ひどく不自然だ。
 隊服に隠れて右腕の傷が見えない。痛むだろうか、と土方は今関係のないことが気になった。
 痛むだろうか。
 今触れれば、逃げるだろうか。
 短く切られた爪では、抵抗もできないだろうか。
 先の赤く染まった指が、白く、細く、頼りがない。こんな細い指を、していただろうか。
「……それは、俺が決めることだ。お前や、他の奴らが口出しすることじゃねェ」
 土方は、畳の上に置かれたままの連判状をひったくるようにして手の中に収めた。
 そのまま山崎に背を向けて、机に向き直る。
「追って沙汰する。それまでお前は、部屋にいろ」
「…………」
「ああ、あと」
 筆を取って、無意味に墨を含ませた。
 広げた白い紙に、ぽたりと墨が落ちて滲む。
「医者を呼んでやる。その傷、どうせろくな手当もしちゃいねェんだろ」
「……はい」
「分かったら、」
 下がれ、という声が、平静に聞こえているかどうかだけ、土方には気になった。
 苛立ちを無駄に含んではいないだろうか。不自然に響いてはいないだろうか。
 するりと山崎が立ち上がる気配がする。振り向いて、痛々しく血の滲む指先を握ってしまいたい衝動を堪えるために、筆をぐっと紙に押し付ける。
 失礼します、と声がして、唐紙が閉まる音がした。


(……あれに、あんな仕事をさせてたのは)
 好きにしろ、と土方は言った。
 成果が出るなら、勝手にしろとそう言った。
(あんな顔を、させてたのは)
 衝動のまま筆を動かして、紙に一つの線が引かれる。
 歪んだそれは多分に墨を含んでいて、じわじわと色が滲んでいく。
 傷口のようだ。
(どうして)
 たとえばもし、何でもないことのように山崎が振舞っていたなら、土方だって何も思わなかっただろう。
 仕事の手段として平然としていたなら、驚くぐらいで済んだだろう。
 あんな顔を、どうしてするのだ。そればかり土方の頭に浮かんで消えてくれない。
 あんな声で、どうして拒絶をするのだ、と、小さな傷が痛んでいけない。
 切腹してもいい、と、静かな声で笑って言う山崎が、土方には恐ろしくて堪らない。