これは病院に来てもらわなきゃ、と医者は言ったが、山崎は頑なに首を横に振った。
 溜息を吐きながら医者が塗ってくれた薬が、つんと鼻につく。腕に巻かれた真っ白な包帯を掌で撫で、山崎は目を閉じた。
 脳裏に浮かぶのは、先刻の土方の姿だ。
 目を、合わせてくれなかった。いつもははっきりとした口調が、どこか戸惑っているようで、山崎が傍近くにいるのも耐えられない、といった風だった。
 思わず傷口の上をきつく掴んでしまい、山崎は痛みに顔を顰めた。
 こんな傷を、負わなければ。失敗さえしなければ。
 もう少し上手くやっていれば。
 あんな姿を見られることはなかった。手を上げて傷つけてしまうこともなかった。
 あんな姿を見られなければ、今日もまた、いつも通り報告をしていつも通り過剰に褒められて、それで終わるはずだったのに。
――――嫌われた)
 うずくまるようにして、腕を更にきつく握る。痛い。傷口は簡単に開いてしまうだろう。
 けれど、その痛みに縋っていなければ、叫びだしてしまいそうなのだ。泣き喚いてしまいそうなのだ。土方の硬く冷たい声が、耳に残って消えてくれない。
(嫌われた。迷惑もかけた)
 噂のことは、山崎も油断していた。新人隊士のくだらない噂話だと捨て置いて、気にも留めなかった。お前たちに何が分かる、という苛立ちだってあっただろう。
 それが、土方の耳に入った。
 迷惑をかけている。
 それなのに。
(どうせ死ぬなら、あの人が首を落としてくれたらいいのにと思っている。あの人の手にかかって死にたいと思っている。俺は、どこまでも、)
 甘ったれだな、と山崎は自嘲した。
 嫌われて、迷惑をかけていて、それならもう死んでしまうのが一番楽だから切腹するのは構わない。傍にいて、これ以上迷惑をかけ続けるよりは、自分などいなくなってしまった方が土方のためだろう。
 けれどどうせ死ぬのなら、その刀で斬って欲しいと思っている。
 最後の苦痛から解放するのは、あの人の手であって欲しいと夢を見ている。
「どこまでも、最低だな……」
 気味が悪い、と思われたって仕方がないのだ。
 嫌われたって、仕方がないのだ。












 慣れた気配が山崎の部屋の前で止まり、「入るぞ」といつものように声がかった。
 山崎は顔を上げ肩を震わせる。捲り上げていた着物の袖を元に戻し、居住まいを正した。しかし、いつもならば無遠慮に開かれる襖が開く気配がない。
「山崎?」
 廊下から声がかかる。それは確かに土方の声だ。
 いつものように開ければいいのに、勝手に踏み入ればいいのに。
「……どうぞ」
 震える声で言葉を返せば、ほっとしたような気配が伝わった。それでも少し遠慮がちに襖が細く開けられ、少しの間を置いてからやっと土方の姿が見える。
「傷の手当ては」
「すみました。薬を塗ってもらったのですぐ治ります。大したことないですよ」
 大げさだなぁと笑う声が、上手く笑っているように聞こえているか不安だ。
 土方はそれに笑い返すこともせず、口を引き結んでいる。難しい顔で山崎の顔を見つめて、それからすっと視線を逸らした。
 山崎の心臓がひやりとした。


 本当は、全部なかったことにしてしまいたかった。
 昨夜のことなど全部夢で、全部なかったことにして、何でもないことのようにできればいいのにと思っていた。
 或いは……土方が何も気にせず、今まで通り振舞ってくれたらいいのに、と微かな希望を抱いていたりもした。
 けれど、土方は目を逸らしてしまって、山崎の目を見ようとしない。軽口に笑い返してもくれない。
 まだ、理不尽に殴られた方がましだった。
 こんな、労わるように、腫れ物に触るようにされるくらいならば。


「さっきの話だが、」
 俯いてしまった山崎と、山崎を見ようとしない土方の間に生まれた重い沈黙を先に破ったのは土方だった。
「はい」
「俺はあんな噂信じちゃいねェ。お前のことは、俺が一番よく知ってる。…………」
 言って、少し間が開いた。
 くそ、と言う小さな呟きが土方の口から零れて、山崎がそれにびくりと体を震わせる。
「……知ってる、が、実際噂は広まって、このまま捨て置けば隊内の秩序が乱れる。それは分かるな?」
「はい」
 分かっているし、これ以上、自分のことで迷惑をかけられない。
 だから切腹すると山崎は言ったのに、土方の言葉は歯切れが悪い。
「だからお前は、とりあえず」
 とりあえずも何もあるものか、と山崎は少し笑った。
 しかしその笑顔は、続いてすぐ凍りつく。
「……謹慎処分だ。幸い、お前の調べのおかげで今日、明日にはでかい捕り物ができるだろう。その周辺を洗えばお前への疑いも晴れるだろうから、とりあえずは、」
「ま、待ってください」
「何だ」
「ちょっと、え、……謹慎?」
「……傷の養生も兼ねて、ゆっくりしろ。当面、監察としての仕事は吉村に任せるから」
「待ってください、俺は」
 山崎の声が震えた。それに土方は視線を向け、大きく溜息を吐く。
「不服か」
「俺は嫌です! 何で謹慎なんですか。裏切りの噂ですよ。敵の手のものかも知れないんですよ。切腹させるのが筋でしょう。何ならあなたに斬られても」
「俺の決めたことだ。お前に拒否権はねェ」
「それでも嫌です! どうして、何で、……俺はあなたに迷惑をかけたくないんです。副長の邪魔はしたくない。そんな形で俺を許せば、」
 感情の高ぶった山崎の目に薄く涙が浮かんだ。視界が滲む。頭が混乱している。
 土方は、難しい顔で山崎の顔を見ている。目を合わせてくれたことに少し安堵して、そんな浅ましい自分に嫌気がさす。
 頭が混乱している。なんで。どうして。それしか浮かばない。
「……そんな形で俺を許せば、隊規は意味を失います。あなたの大事にしている真選組が、壊れてしまいます」
「そんなことじゃ壊れやしねェよ」
「本気で言ってるんですか? お願いですから、副長、考え直してください」
 真選組は、人殺しの集団だ。
 気性の荒い連中ばかりが集まり、ともすれば無秩序になりがちな集団をきつく締め上げているのが土方の作った局中法度だ。反すれば死。それは、真選組隊士なら誰でも知っているし、それを知っているからこそこの集団の秩序は守られている。
 もしここで山崎が謹慎処分でとどまったとなれば、それは悪い前例になるだろう。
 死にはしないと高をくくるものもでてくるだろう。副長である土方に気に入られれば免れるのだとおべっかを使う者も出てくるだろう。それは、土方の望むところではない。山崎はそれを知っている。

 何で。どうして。そうまでして山崎を生き残らせる理由など、土方にありはしないだろうに。
 それに、どうせ生きているのなら、傍にあって役に立てなければ意味がないのに。
(謹慎? そんな、何の意味も)
 役に立てもしない。隊規は乱す。そんな処分になんの意味があるのか。

「副長、土方さん、お願いです」
 何も言わない土方に、山崎はにじり寄る。真っ白になった頭で、思わず土方の腕に縋るように手を伸ばした。
 触れた瞬間、土方の腕がぴくりと動き、その振動が山崎の掌に伝わる。
 けれど山崎には、もう他のことなど考えられない。自分が嫌われているだとか、軽蔑されているだとか、そういうことも考えられない。
「土方さん、お願いですからもう一度」
「うるせェ」
 山崎の言葉をさえぎるように、土方が掠れた声で言った。
「俺の決めたことだ」
 掠れたままの声でそう続けて、山崎の頬にそっと触れた。
 そこで山崎ははじめて我に返り、離れようと腰を引く。けれど、気づけば片腕を土方に掴まれていて、逃げることが叶わない。
「ふくちょ……」
 土方の熱い掌が、山崎の頬をするりと撫でた。山崎の髪を耳にかけ、そのままやわらかく髪に指を絡めさせる。
「ひ、じかたさん、」
 山崎の喉に声が絡まる。土方の指が耳に触れるたびに、震えそうになる体を必死で押さえる。
 握られている腕が熱い。触れられている耳が痺れるようだ。
 何が、起こっているのかわからない。
 どうして、なんで。そればかりが頭の中を駆け巡って、もう何も分からない。

 山崎の顔を土方が覗き込み、視線が絡んだ。
 土方はやはり、難しい顔をしている。山崎は戸惑ったままその視線を受け止める。
 ゆっくりと顔が近づいて、今にも触れ合ってしまいそうな距離で、唇から零れる吐息が混ざり合った。