どのくらいの時間が経ったのだろう、と山崎は体を硬くし続けた。
 本当はどのくらいの時間も経っておらず、土方が山崎にその端正な顔を近づけたのはほんのまばたき一つ前だったとしても、山崎にはその一瞬が、二時間にも三時間にも感じられている。
 体を少しでも動かせば、唇が触れ合ってしまうだろう。
 なんで。どうして。その二つの言葉しか知らないかのように、その言葉しか浮かばない。
 逃げられないように、と握られている手首が熱い。火傷しそうなほどに熱い。
 はやく逃げなければ、触れ合った部分から土方が汚れてしまう、と思うのに、振りほどけない。
 汚れてしまう。腐らせてしまう。どろどろとした薄汚いものが移ってしまう。
 けれどもしかしたら、土方なら大丈夫なのかも知れない。
 きれいに生きているから、山崎に触れた程度では、腐りなどしないのかも知れない。

 どのくらいの時間が経っただろう。
 距離の近さに驚いて薄く目を閉じている山崎の唇に、ふ、と土方が吐き出した息がかかった。同時に、手首を握られていた手にぎゅっと力が篭る。
 一度、土方の指がやわらかく山崎の髪を撫でて、
「……悪い」
 歯切れの悪い謝罪とともに、土方が山崎から身を離した。
 握っていた手首からするりと手を離す。無骨な指が巻きついていたそこが突然外気にさらされて、火傷するかと思う程だった熱が一瞬にして冷めていった。
 体を離して少しの距離を取った土方は、一つ短い謝罪をしたきり何も言わず、視線を落としてしまっている。
 距離が離れたことで幾分か安堵した山崎は、何を見ているんだろう、とどこかぼんやりした気持ちでその視線を追った。そして土方の見ているものが自分の短く切った爪だと知り、緊張を解いていた体を再び硬くする。
 隠すように手の中に握り込む。
 土方は少し困ったように視線をさ迷わせ、山崎をちらりと見上げた。その視線が土方にしてはひどく弱々しく、山崎は上手く目を合わせることができない。
「……怪我、しっかり治せよ」
 そう小さく呟いて、土方は立ち上がった。動きに無駄のない土方にしては、音の立つような乱暴な所作だ。
「副長、」
「じゃあな」
 呼びかけた山崎の声をさえぎる様にして、山崎の部屋から出ていってしまう。
 取り残された山崎は、皮膚の内側にじりじりと残った手首の熱さだけを感じている。
「……なんで」
 その言葉ひとつしか、浮かばないのは、頭が熱さでやられているからだろうか。
 土方に毒を移すまいと考えたあまりに、体中に醜い毒が回ってしまったからだろうか。
 それとも、唇に触れた吐息の熱のせいだろうか。
「何でそんな……」
 優しい言葉をかけて、逃がさないというように手首を握って、くちづけを、しようとして。
 痛々しいほど短くなった山崎の爪を、戸惑ったような顔で凝視して。
 どうしてそんなことばかり、自分が勘違いしてしまいそうなことばかりするのだろう、と山崎は戸惑っている。戸惑いながら、どこか夢をみているようなぼんやりとした気持ちでいる。
 夢だったのかもしれない。
 今の一瞬に山崎が見た幻だったのかも知れない。
 けれど、唇に触れた吐息の感覚が、まだ少し残っている。
(……どうして)
 手首を握ってあんなに顔を近づけて、どうしてくちづけをしてくれなかったんだろう、と、山崎は思っている。
「はは……先に嫌がったのは、俺なのにな……」
 泣いてしまわないように両腕で顔を覆うようにした。泣いても声が出ないように、顔をすっかり隠してしまう。
「どうして殺してくれないんだよ……」
 先に嫌がって拒絶して、その肌に傷までつけたくせに、あのまま唇を重ねて欲しかっただなんて自分勝手なことを思っている自分を。
 迷惑をかけるばかりで何の役にも立たない自分を。
 どうしてあんなに優しく、守ろうとするのだろう。





    +++





 震える吐息の感覚が、生々しく唇に残っている。
 副長室に戻った土方は、止まない頭痛にこめかみを指で強く押さえ、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
(俺は一体何をしてんだ!)
 苛立ちに任せて腕を払えば、きちんと端を揃えて置かれていた書類が大きな音をたてて乱雑に床に散らばる。
「片付けろよ、山崎……」
 山崎は、大雑把な性格なので、常日頃から書類をきちんと並べるということはしない。自分なりに法則はあるのだ、と口答えをするが、土方が苛々するような置き方で資料なども乱雑に積み重ねている。
 土方は神経質なたちなので、それが許せない。許せないから見つけては文句を言う。ついでに自分の散らかした書類も片付けさせる。
(……片付けろよ)
 言えば、口答えをしながらぶつぶつ文句を言いながら、それでも山崎は片付けて、ついでに灰皿を新しいものに代え、お茶でも淹れましょうか、とすぐに休憩をしたがった。副長室のどこに何があるか、山崎は知っていて、茶や茶菓子の場所などは土方よりも正確に把握しているかも知れない。
 そういう、立ち位置だ。
 土方にとって山崎は、そういう立ち位置だった。
 常に傍にあって、仕事の補助をして、土方の理不尽な我侭を聞いて、部下らしからぬ口答えをして、仕事をサボるのが上手くて、そして、ひとたび仕事をさせれば優秀に働いた。他の誰も知りえないことまで軽々と調べて見せ、当然というようにしれっとしているのだけれど、土方が褒めると嬉しそうな顔をした。
「……そんなことまでしろなんて、言ってねぇだろ、馬鹿が」
 けれどあんな方法で、自分ひとりが傷つくような方法で仕事をしろと言ったことは、一度だってない。
(……が、これも言い訳だ)
 苛々と机の上の煙草を探り当て、口に銜える。続けて探したライターは机のどこにも見当たらず、土方はフィルターを強く噛んだ。

 唇に、震える吐息の感覚が残っている。
 逃げようと強張った手首が思っていたより細かったのに驚いた。
 薄く閉じられた瞼を縁取るまつげが、長くはないけれど多いのだな、と妙なことにも気がついた。
 触れた肌が心地よくて、離れがたかった。
 あのまま、口吻けて、貪って、暴き立ててしまいたかった。

(……糞!)

 消えないのは昨夜見た山崎の姿だ。あれが脳裏から消えてくれない。
 だからだ、と土方は畳に拳を叩き付けた。
 だからだ。あんなものを見たからだ。あんな、無残な、無残に色づいた姿を見たから。
(鬼なのはいい。理不尽だと詰られるのも構わねえ。だが、これは……)
 最低だろう、と頭を抱える。
 あんな色に、欲情をした。あんな無残な姿の残像に熱が上がった。欲しいと思った。奪いたいと思った。
 それはどれほど山崎を傷つけただろう。触れられることすらあれ程拒んだのに、どれほど土方のことを軽蔑しただろう。

(……もう二度と、あんな仕事のしかたはさせねぇ。許さねぇ。好きにしろたァ確かに言ったが、あいつが自分を犠牲にするこたねぇんだ。傷つくことは、ねえんだ……)

 では、傷つけたのは誰だろう。誰のせいで山崎は傷つくのだろう。
 土方はもう一度強く畳に拳を叩きつける。わずかに痛む。けれど、山崎の傷はこんなものではないだろう。
 そっと目の下に出来た傷口に触れた。ちりちりと痛むそれに土方は顔を顰める。
 こんな傷を作るほど姿を見られることを拒んで、それを見ることで傷つけて、そのことで山崎は血が滲む程爪を切って、それでもまだなお土方は山崎に触れようとして。
 殺してくれ、と言うのだって許せなかった。
 山崎の言い分の方が余程筋が通っているのに、そんなことは想像だってしたくなかった。

(あの噂も、どうにかしなきゃなんねェな……あれも、気づかなかった俺が悪ィだろう)

 山崎がそれ程までに嫌われているということに気づきもしなかった。
 沖田は、土方が悪いのだと言う。
 土方が山崎を特別に扱うから、そうなったのだと言う。

(特別扱い? そんなのしちゃいねェよ。あいつはただ、少し人より優秀で、使い勝手がいいだけだ)

 それだけだ。仕事の上で都合がいいからそうしているだけで、別に山崎が特別だというわけではないのだ。山崎のように仕事が出来て使い勝手のいい人間がいたら、そちらを使うだけのことだ。
 それだけのことだ。
 けれどそういう人間が他にいないのだから、仕方ないだろう。と土方は思っている。それが言い訳だとは少しも気づかず思っている。
 他にいないから、山崎を生かしておくしかないだろう、と言い聞かせている。

(だったらこれが最後だ。今度の謹慎が最後で、それ以降、あいつに目をかけることはやめにしよう。特別扱いが原因ってぇなら、そうしなきゃいいんだろう)
 ふ、と息を吐いて、土方は首を軽く振った。首をめぐらせれば視線の先にライターが見つかったので、少し安心して、銜えたままだった煙草に火をつける。
 深く煙を吸って、吐く。
 買出しもしばらくは他の奴に行かせればいいだろう。
 山崎の謹慎はどうせ一週間以内には解けるだろうけれど、それ以降も、少し距離を置いた方がいいだろう。それがきっと、いいだろう。
「…………その方が、あいつも俺も、傷つかずにすむだろうよ」
 煙とともに小さく吐き出した。
 無意識に零れた言葉はあまりに小さすぎたので、土方の耳にも上手く残らなかった。
 だから土方は気付かなかった。
 山崎が傷つかないように、と配慮することが特別扱いで、そして、山崎が傷つけば自分も傷つく、ということに、気付かなかった。
 あまりに当たり前のように無意識に零れたので、気付かなかった。