影がある。
ひとつである。
土方は細く煙を吐き出しながら足元に視線を落とした。靴の裏から伸びているはずの影は、暗い夜に塗りつぶされていて見えない。
(あるいは本当に、あいつが俺の影だろうか)
深く煙を吸い込めば、合わせて煙草の先が明滅した。
それだけが唯一の光源だ。土方の姿もきっと、遠くからは闇にまぎれて見えないだろう。
血の匂いがする。
逃げ回るような気配と押し殺したような悲鳴だけ、耳に届く。
あとは影があるだけだ。
響いた醜い叫び声が不自然なところで切れ、どさ、と鈍い音がする。
沈黙、そして暗闇。
土方は半分ほどの長さになった煙草を捨て、踏みにじり火を消した。
それを待っていたようなタイミングで、闇の中から影が人の形を取る。
血の匂いがするが、渇いている。
「終わりましたが」
「ご苦労」
異常のなかった見回りの報告でもするかのように淡々と、山崎は言って、真っ直ぐに土方を見上げた。それにかける言葉を、土方は多く持たない。何を言えばいいというのか。こんなことをさせておいて。
山崎が別段何かを感じているような、たとえば、苦痛だとか、不快だとか、そういう感想を持っている様子がないことが、土方にとってせめてもの救いだった。
見上げてくる視線を少しの間受け止めて、それから土方は踵を返す。
(あるいは、本当にこいつは俺の影で、人ではないのではないか)
少し、足を速めた。
光のある場所に出ればおのずと影も出来るだろう。そしたらこんな、おかしなことを思わずに済むはずだ。
(こいつが俺の影ならば、一生俺の傍から離れることもないだろう)
そう思えば嬉しいような気もする。嬉しいのか。これは、幸いなことであるか。
意味のない思考を巡らすことも馬鹿らしく、考えを振り払って振り向けば、山崎は遅い足取りで土方の後を追いながらしきりと指先を気にしていた。
「どうした」
「いや、爪ん中に血が」
「帰って洗ったら、落ちんだろ」
「まあ、そうなんですけどね」
言いながら、やはり気になるようで、短い爪で反対の手の爪をいじる。
背を少し丸めて俯きながらそうするので、どうも、その体が頼りなげに小さく見える。
少しの距離を詰めて抱き寄せたい衝動が土方の中に湧き上がったが、ぐっと堪えた。
「……さっさと歩け。帰るぞ」
「はぁい」
振り切るように前を向き、歩く速度を、また少し速くする。
足音も気配もなく山崎がそれについて歩く。
暗い場所を抜け、街灯の姿が見え始めた。その下を通る際、少し視線を落とせば、靴の裏から真っ直ぐ伸びる自分の影が目に入る。
土方は思わず振り返った。
山崎は軽い足取りで、やはり音も立てずに付いてくる。
(ああ、こいつは、俺の影ではなかった。闇の中でだけ自由に動く、俺の分身では、なかった)
ほっとしたような、惜しいような、そんな気がしている。
「山崎」
呼べば、ふらふらとどこかを見ていた山崎の視線が真っ直ぐこちらを向いて、その目が少し笑った。
「はいよ」
甘い声で返事をする。その手首を掴んで街灯の下に引きずり込み、腕をまわして抱きしめた。呼吸を深く吸えば、少し血の匂いがする。
抱きしめる力を強くすれば、山崎の手が戸惑ったように、土方の腕をぱたぱたと軽く叩いた。
抱きしめても消えない。大丈夫だ。
しかしやはり、少し悲しい。
抱きしめたまま、地面を見つめる。黒い大きな影が広がっている。土方と、山崎の影が、重なってそうなっているのである。
(生きているが、やはりこいつは、俺の影だ)
きつく抱きしめながら、土方は合わせた奥歯に力を込める。
(こいつがいなくなれば俺は、俺でいられなく、なるだろう)
土方さぁん、と情けない小さな声を、山崎が上げるが、土方は無視をする。
影の言うことなので、取り立てて気にすることもない。放っておけば、よいのだ。
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