※IN鬼兵隊
ただ単純に手を握りたかった。ひらひら飛び回る蝶を捕まえたいと思うのに似ている。無造作にぶら下げられている右手に手を伸ばして、ただぎゅっと握ってみたかった。
左手は袖を抜かれ、指先は煙管を摘んでいた。自然にそうするのでひとつの空気が出来あがっていて、それはまるで一枚の絵のようだな、と思うことがあった。煙管を使って煙草を吸う人間は、これまであまり見たことがなかった。一度吸わせてくださいと今度頼んでみようと思うが、手もまだ握れないのに、そんなことをねだってもいいのだろうか、という躊躇があった。
あまりにも手を握りたいなと思いすぎて、時折刀にさえ嫉妬をした。大切に扱われ手入れされ分身のように傍にあり片腕としてそこにある、刀に成り代わりたかった。いくらだって人を殺してみせるから俺をあんたの刀にしてください、といつかうわごとのように言った。もう意識が甘い白濁色の中に沈んでいる最中だったので、それに返った答えは、残念ながらわからない。思うに、きっと、答えは返らず、いつものように嫌そうな顔をされただけだったろう。
(そういや本当に、手を握ったことがないな)
抱かれたことは何度もあるのにおかしなことだ。そういえばくちづけだって、やさしく触れ合わせるというよりは、やわらかい皮膚を噛み切るというのに近かった。勝手気ままで暴力的。奪われた、とは一度も思いはしなかったが、ただ、
「おい、何やってんだ」
「あ、はい、すみません」
不意に振りかえった高杉が突然声をかけたので、山崎はびくっとして甲高い声をあげた。高杉はそれには顔を顰めてから、何事もなかったかのように再び前を向き、すたすたと歩き出す。
一枚の絵がゆらりと動いているようで不思議な感覚。煙管から立ち上る細い煙がすう、と空気に溶けて行く。
(……奪われたのでなくて、ただ、これは、)
後ろを歩く自分が遅れがちになっていたことに気づいてくれた、ということが、ひどく幸せなことのようで、喉の奥がじんわりと痛くなった。胃のあたりが少し熱い。
(これは、きっと、攫われた、と言うのだ)
心を攫われて取り戻せないのだ。熱を逃がすように深く息を吐いて、遅れないように足を速める。ぶらぶらと動くその手に触れて、ただ一度、きつく握ってみたかった。そうすれば指先から掌から体温や鼓動が伝わるような気がして、それを感じてみたかった。そんな些細なことを焼けつくくらいに思うほど、心を攫われてしまっている。
(手に触れて、そして、やさしく握って欲しいな)
夢を見るように思っている。今夜はそういう夢が見れたらな、と思っているのに、いっそ近いのかも知れない。喉のあたりが甘くつっかえて苦しい。
(この人が、俺のことを好きになってくれたら、いい。でもそうなれば、俺は晋助さんの邪魔になるだろう。道具では、いられなくなるかも知れない。それは嫌だな。悲しい。でも、俺のことを好きになってくれたらいいな)
やさしくしてくれなくたっていいから、ずっと傍においてくれたら、いいな。
考えながら歩くのでどうしても遅れがちになる。のろのろと足を動かす山崎に焦れたように、再び高杉が振り向いた。不機嫌そうな顔をしている。
「早くしろっつってんだろうが」
苛立ちを含ませた声でそう言ってから、高杉はおもむろに、手をずいと山崎に伸ばした。
駆け寄りかけていた山崎は、目を見開いて立ち止まる。
急ぐどころか足を止めた山崎にますます苛立ったのだろう、舌打ちをして、数歩後ろに戻り山崎に近づいた高杉が、無造作に山崎の手を掴んだ。
やさしく包み込むようにして、軽く引いた。
「手を引かれねえとまともに歩けもしねえのか」
犬かおめえは。呆れたようにそう言って、前を向き直った高杉は再び歩き出す。
山崎の手を、その右手が握っている。包み込むようにやさしく、やわらかくだ。
ひらひら飛び回っていた、無造作にぶら下げられていた手が、今、自分に触れている。握られた手を凝視しながら、山崎は懸命に足を動かした。頭が真っ白になって喉がつかえて上手く歩けもしないのに、それでも懸命に歩いた。
やさしく包まれている手が、離れてしまわないように、それだけ。
「晋助さん」
「何だ」
「…………好きです」
何をどうすればこの胸が苦しいのがおさまるのかと悩んで、結局いつものように、溢れださんばかりになっている言葉をひとつだけ零した。高杉はいつものように少し黙って、苦い声で、「そうか」とだけ言った。
そうしてまたひとつ、心をあっさりと攫っていってしまって、もうそんなに攫っていくのなら、その、持って行った心を全部抱えて、いつのまにか自分一色なってくれたら死にたくなるほど悲しいけど死んでもいいくらい嬉しいだろうな、と、繋がれた手を見ながら、山崎は考えて、考えながら、握り返してもいいだろうかと、まだ少し、躊躇っている。
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