初めて心底惚れた女には一度も触れずに終わった。本当に、指先一つ握れなかった。きっと傷つけてしまうと分かっていたからだ。自分が触れたらそこから全部傷つけてしまうと、分かっていたから触れられなかった。
では一体これは何なのだろう。自分の体の下に転がる細い体躯を見下ろしながら土方は考える。
げほっ、と苦しそうに山崎が咳き込んで、か細く息を吸うのが分かった。その途中で再び咳き込み、喉を押さえる。口内が切れて血が喉へ引っかかったのだろう。山崎の体に馬乗りになったまま、土方は静かにその様子を観察した。
何度か小さく咳をした山崎は、少し充血した目でそっと土方を伺い見る。もっと怯えた顔をすればいいのに、いやに生意気な目をしている。
「いてえか」
「……当たり前でしょう。俺ァ一応、生身の人間なんです。これだからゲーム脳は」
「自分のこと人間だなんて大口生意気言えりゃ上等だな」
「たとえ犬畜生でも、殴られりゃいてえに決まってんでしょう」
生意気な言葉を吐きながら、それでも山崎は土方にどけと言ったりはしない。ただ軽く睨みつけるように土方を見上げている。少し、拗ねたような目でもある。
土方の拳は先ほど躊躇いもなく山崎を打って、山崎はそれで血を流しているというのに、何故だか妙に、馴れた、甘い空気が漂っている気がして、土方は眉根を寄せた。
たとえば。
自分は人殺しに類する人間であり、割合平気で人の命を奪う。仕事という名の存在意義でもってそうするので、いちいち罪悪感など感じていられない。
そんな非道な人間であるから、きっと、回路はどこか壊れていて、人を傷つけることもあるだろう。
初めて心底惚れた女は心の優しい、清らな人であったから、こんな自分の暴力的なところを耐えず見ていては、その顔を曇らせることもあったろう。
幸せにはできないとわかっていたから、触れられなかった。触れたくなかった。
では、これは?
この、甘さを含みかねないようにただじっと自分を見上げる、これは、何だろう。
どういうことだろう。ぱん、と軽く平手で頬を張った。戯れのようにそうしたので、山崎も戯れのように、あいたっ、と軽く声を上げた。
「だから、いてえっつってんでしょう」
「うん」
はあ、と大きく、わざとらしい溜息をついた山崎の頬を、今度は優しく撫でた。赤く腫れた部分を癒すようにゆっくり撫でれば、山崎はゆるゆると目を閉じて安心したような吐息を零す。
「なあ、山崎。好きだ」
「……はは、どうしたんですか、いきなり」
頬を撫でる土方の手を、山崎の手がきゅっと握る。閉じていた目を薄く開け、山崎は微笑んだ。
「それで、苛々は収まりましたか?」
唇の端が切れている。触れれば痛むのか、わずかに顔を顰める。
「……ああ」
「まったく。ストレス解消するのはいいけど、次はもうちょっと、手加減してくださいね」
いくら俺でも死んじまいますよ。
ちっとも死にそうにない山崎は元気そうに笑って、土方の掌にすり寄った。さら、と黒髪が畳の上を滑る。その髪を指先ですくい、落とし、耳元へ唇を押し当てた。
これは一体、何なのだろう。甘たるい空気。
ああ、でも、これならば。感情をぶつけても逃げないし、酷く傷つけても簡単には傷つかない。これならきっと、知らないところで、泣かせることもないだろう。
だとすればもう手放せない。確信めいたものを、土方は覚えている。それが少しも嫌でないのが厄介といえば厄介だ。
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