散り行きし、花に色香は劣れども。





 何度目か、ばしゃり、と泥水が跳ねた。高杉の着物の裾や足などはすでに泥で汚れてしまって、それをまた、降る雨が時折洗い流していく。
 ばしゃり、と、泥水が跳ねた。

 人攫いの言っていた「南に進んだ所にある小屋」はすぐに見つかった。その辺りには他に道らしい道もなく、建物らしい建物もなかった。打ち捨てられた田と畑に囲まれた草の多い茂る場所に細く細く作られた道の先、その小屋はぽつんと立っていた。
 しかし。
「…………退、」
 ばしゃり、と泥水が跳ねて、高杉の足を汚していく。
 降る雨が前髪の先から雫となって、ぽつりぽつりと視界を邪魔する。
 何度。何度探しても。
「小屋の、裏、……」
 ぐるりと回って、中を覗いて、何度、何度探しても。
 ばしゃりと雨水が跳ねるばかりで、髪が水気を吸うばかりで、着物が汚れていくばかりで。
「退……?」
 どこにも、探している姿がない。

 小屋の床には、かすかに血が付いていた。それを指で擦って、噛み切る勢いで唇を噛む。さ迷わせた視線に目に入ったものに、怒りで目の前が赤く染まった。拾い上げ、握り締める。布。
 南の小屋とそう言った。裏に捨てたとそう言った。
 こんなことなら生かしておいて、もう少し詳しい話を聞けばと思ったが、もう遅い。
 半日だ。
 いなくなったことに気付いて、集落の中を探し回って、旅人に教えられた寺院へ行って、話を聞いて、まさに子供を攫おうとしていた人攫いを見つけて、口を割らせて、殺して。真っ直ぐ南へ駆けて来て、小屋を見つけて探し回って、半日。

 小屋の裏手に崩れた木材があった。しゃがんでよくよく見てみれば、雨に濡れていない部分に、乾いた血の跡があった。指でなぞって、爪で擦って、爪の間についた血の塊を見て、ぎりぎりと噛んだ唇がぷつりと切れる。
 ずるり、とその場に座り込んで高杉は、自分の右手をぼんやり見つめた。
 擦って、爪に付いた血と、自分で斬った返り血で染まる手。雨に流されてほとんど落ちた返り血が、湿気でかえって粘つき、気持ちが悪い。

 捨てた、と人攫いはそう言った。けれどここに、姿がない。
 血が、残っていて、それだけ残っていて、破られた布の切れ端が、残っていて。見覚えのある、着物の切れ端が、塵のように床に取り残されていて。
「……退、……」
 ここに姿がないのなら、自力でどこかへ逃げただろうか。それとも自分のときのように誰かに助けられて、傷の手当をされているだろうか。冷たくなった姿をここで見つけることにならず良かったと思うが、もしかしたらどこかで、力尽きて倒れてはいないだろうか。

 切れた唇の傷を抉るように、歯を立てる。
 守れなかった。何一つ。守れなかった。そう思って。
 せめて、せめてどこかで誰かに助けられて、笑っていてくれたらいい。自分が彼を拾ったときのように、誰かに拾われてくれていれば。

 どこかでもしかしたら、倒れているかも知れないと思った。助けに行かなければいけないと気付いた。けれど、座り込んだ足が、動かない。怖くて少しも動かない。
 助けて、そして、守れなかったら?
 また守れなかったら、どうすればいい?

「退…………」

 何度目かの、名前を呼んだ。飽きるほど呼んでもまだ足らなかった。
 好きだ、と小さく呟いた。優しく静かに降る雨は、その声を掻き消してはくれなかった。

「好きだ……」

 どうしてきちんと、言わなかったんだろう。
 後悔ばかりが渦巻いて、どうしても、立ち上がることができなかった。











「雨、収まってきたな」
 窓の外を眺めていた土方は言って、山崎へと視線を転じた。まだどこか不安そうな山崎を見て、少し笑ってみせる。
「そんな怯えんな」
「いえ……」
 怯えているわけではないと首を振る山崎に、土方は溜息を吐く。じゃあ、何だ、と聞かれて、山崎は口篭った。
 雨の、音が、さぁぁぁぁと静かに聞こえている。
 かけられた布団の端をぎゅっと握って、山崎は大きく息を吸った。
「あの、」
「何だ?」
 じろり、と見られたような気がして身が竦む。
「俺……どうすれば、いいんでしょうか」
 この後、と続かず小さく消えた山崎の言葉に、土方が少し眉を上げる。それを怒りだと感じて、山崎は自分の手に視線を落とした。

 この後。
 怪我が治るまでは安静にしておかなければいけないから、それまで出立は先延ばしにする。と、先ほど訪れた近藤と名乗る人はそう言った。怪我が治るまでは、ここにいられる。
 では、その後は。
 親を亡くし、何も分からず、自分が今どういう状況にあるのかも思い出せず、どうすればいいのか分からない。
 加えて何か自分の中で抜け落ちている部分がひどく気がかりで、それが山崎を堪らなく不安にさせている。

「好きにしろ」
 返った言葉に、山崎が身体を強張らせた。
 それに気付いて土方が溜息を吐くのが分かる。怒らせたのだろうかと息を詰める山崎の頭に、ふわり、と優しく手のひらが乗った。
「お前、刀は使えるか」
「え……」
「使えるなら、俺たちと一緒にうちの道場に来ればいい。お前と同じくらいの年の頃のガキもいる」
 どうだ、と尋ねる声音が優しかった。
 怒らせたわけではないのだと安堵して、はい、と山崎は頷く。
「少しだけですが、教えてもらいました」
「そうか。どこかの道場か、それとも独学か?」
「教えるに向かない剣だから、と、基礎だ……け…………」


 あれ?


 誰に?


 父は学問以外はからきし駄目だった。母はもちろん刀を握ったことすらなかった。

 教えてやると言ったのは     、


「う……、…はっ……ぁ……」
「おい、大丈夫か!?」
 突然身体を折り曲げて苦しみ始めた山崎に土方は慌てる。背中を優しくさすられて、山崎の呼吸が徐々に楽になっていく。

 思い出せないことは、思い出したくないことだから。
 黒髪の優しい人がそう言った。
 それを呪文のように頭の中で唱えて、山崎は少しずつ落ち着く。
 何かが絶えず、自分の中で抜け落ちているような奇妙な感覚がしている。何かが上手く繋がらないようなおかしな感覚が常にある。
 けれど、思い出せないことは、思い出さなくてもいいことだから。

 背中を優しく撫でながら、心配そうにこちらを覗き込む土方を見る。
 黒い髪が、揺れている。
 前にもこんなことがあった。思い出せない中で、前にもどこかで、こんなことがあって、不安で泣きそうな気分を癒してくれた人がいた。
 黒い髪の、優しい目をした。

「土方さん……」

 名前を呼んで、そっと手を伸ばせば、少し戸惑いながらも握り返してくれた。
 山崎はふわりと笑って、もう一度、「土方さん」と名前を呼ぶ。

 この人に助けられた命だ。もしかしたら、抜け落ちた記憶の中でも一度、救ってもらっているのかも知れない。一緒に来ればいいと言ってくれた、黒髪の。

 この人に助けられた命だ。
 一生、この人の傍で、この人の為にこの命を使おう。

 心に決めて山崎は、握り返された手にそっと力を込めた。











 雨が音もなく静かに降っていて、それが高杉の身体を静かに濡らしていく。
 名前を呼んでも、返る声がない。
 元気に、嬉しそうに、何ですか、と見上げる笑顔がない。
 好きだと言ったじゃないか。子供のように思う。好きだと、そう言って、口吻けまで寄越したじゃないか。
 好きだと言って、謝ったくせに、そうまでしたくせに、何故今ここにいない。何故いま隣にいない。

「…………ふざけんな……」

 守ると誓っておきながら、何故、今、守れもせずに、このままどこまでも連れて行こうと勝手に決めておきながら、今、探しに行くことさえできずに。

 高杉の涙に霞む視界の先で、道端に咲いた小さな花が雨に打たれて揺れていた。小さな、名前もすぐには浮かばないような花だった。誰もが目を留めて立ち止まる、そんな花ではなかったが、一度気になれば目が離せない、そんな、花に似た笑顔だった。
 好きだった。守りたかった。あの笑顔をずっと、守って、できれば自分に向けていて欲しかった。傍に、隣に置いて、沢山の世界を一緒に見て、沢山の笑顔を見たかった。
 艶やかではなかった。美しくもなかった。けれど、あの笑顔が好きで、好きで、守りたいとそう思っていたのに。

 好きだと、ただの一度も、告げなかった。
 攫ってしまいたいと、ただの一度も、教えなかった。



 雨が静かに降っていた。
 優しい雨は音をさせずに、ただ静かに、路傍の花を濡らしていた。





            



     (08.05.30 - 08.07.14)   後書