一人大切な人がいれば他に何もいらなかったわけじゃない。
一人大切な人と一緒に、いろんなものを、手に入れて行きたかった。
そんな願いが分不相応で全てを失うというのなら、二兎追う者はという諺は、ひどく残酷に的を射ている。
どさり、と音がしたのはこれで3度目だった。
男は、顔面蒼白のまま辺りを見回す。口の中がカラカラに乾いており、舌も上手く動かない。一人、二人、三人、倒れている人間は、全てが見知った顔だった。30分程前までは、一緒に喋って笑っていた。それが、今、血の海の中。壮絶な光景に無意識のうちに足を半歩下げれば、何かにつまずき転びそうになった。恐る恐る後ろを見れば、腕が、無造作に落ちている。上手に斬れた、きれいな断面図。
「……で? その攫った子供はどうしたんだ?」
かけられた声にびくりとして前を向く。血に塗れた刀を持って、怒るでなく笑うでなく、こちらをじっと見つめるその姿に、男は乾いた唇を開閉させた。声が、出ない。
鬼。
醜悪な姿の天人は今まで山ほど見てきたが、鬼に会ったと思ったのは今がはじめてだった。残酷な天人にも数多くあったが、これほど恐ろしいと思ったのは初めてだった。
返事をしない男に痺れを切らして、鬼は刀を静かに慣らした。逆手に持っていた刀を順手に持ち替え、男の首に真っ直ぐ向ける。
「その、攫った子供は、どうしたんだ」
静かな声音。
男は懸命に乾いた唇を開き、声を絞り出そうとした。しかし、上手くいかない。早く言わなければ殺されるとわかっていながら、何も出来ない。
向けられていただけだった刀が、首筋にぴたりと当てられる。く、と軽く力を入れられ、痛みと共に肌に血が滲んだ。
「……あ、あ、あ、あ、あ、」
「どうしたんだ?」
「あ、あ、あ、あ、っ……す、捨て」
「…………」
「あ、あば、暴れて、暴れて、傷が、付いたので、す、捨て、捨てろって、い、言われて、」
「どこに?」
「う、ううう、裏、裏です、ここから、南に少し、行った、こ、こや、小屋が、その、裏に、うう、裏に、―――――――――っ!!」
震える声で告げた男の目に、やっと鬼が笑うのが映った。
にい、と口の端だけ上げて笑った鬼は、そのまま鮮やかな手つきで刀を一閃させる。
それが、男の見た最後の世界だった。
仲間と同じく血の海に沈んだ男の骸を足で踏みつけ、その鬼は、無造作に刀に付いた血を男の着物で拭った。
止み始めていた雨が再びひどくなっていた。
再び刀を腰に差した高杉は、人の形をほとんどしていない骸を4つその場に置いて振り向きもせずに駆け出す。真っ直ぐ南へと向かう高杉の視界を、雨がぼんやりと霞ませていた。
一人大切な人がいれば他に何もいらなかったわけじゃない。
薄く開けた目に、まず映ったのは天井。そして耳に、さらりという衣擦れの音。
傍らにある人の気配にびくりと身体を揺らして、山崎はかっと目を見開いた。
心臓が早鐘のように打っている。自分が布団に寝かされているのだと知って、状況の分からないことにパニックになった山崎の肩に傍らの人が手を乗せた。
思わずそれを払い落とした山崎は、起き上がろうとして全身を襲う激痛に息を止める。嫌な汗が背中を伝った。
「う、あ……」
「大人しくしておけ」
再び、肩に手を乗せられたが、今度はそれを払いのける力もない。全身を強張らせる山崎の額に、無骨な男の手が乗せられる。
「熱は下がったな」
「何、……だれ、……」
首だけをそろそろと動かして、声の主を確認する。そこにいたのは一人の青年だった。黒い髪が高い位置で一つにまとめられ、後ろに長く伸びている。黒っぽい着物を着ていて、そして、億劫そうな目で山崎を見ていた。
「寝てろ。骨折、打撲、擦り傷、発熱。内臓が無事だっただけ奇跡だな」
「…………何、で……」
「何でそんなになってるのかはこっちが聞きてェくらいだがよ。そんなナリで捨てられてる子供を放っておくわけにもいかねーだろ。別に何もしねェよ。怯えんな」
「すてられた……」
落ち着いた青年の声に、高ぶっていた山崎の神経が少しずつ落ち着く。
パニックこそ薄れたが今度は言われた言葉をぼんやり鸚鵡返しする山崎に、億劫そうだった目が不審の色を浮かべた。
「お前、もしかして覚えてねーのか?」
「何が……ここ、どこ……」
「俺たちの古い知人の家。目が覚めてよかったぜ。もう明日には道場へ戻ろうと思ってたところだ。勝手に連れて行くわけにも、置いていくわけにもいかねェからな」
「……俺……」
山崎は、視線をきょろりとさ迷わせた。全身が痛い。骨折、打撲、擦り傷、発熱と青年は言ったが、何がどうなってそんな風になっているのか、山崎にはよく分からなかった。自分が何故この場に拾われたようなことになったのかも分からない。
「母さんと……父さんが、京都へ行くって……」
「旅の途中か」
「それで…………戦場の近くで、天人が来て、」
「……なるほどな」
「それで……それで、俺、怖くて、怖くて……気持ち悪くて……」
「もう、いい」
「それで、それで…………それ、から……」
ずきり、頭が痛む。その痛みに吐き気すら覚えて、山崎は口を噤んだ。ぐう、と唸った山崎の様子に青年が慌て、山崎の身体を抱え起こす。痛みが全身に走り、嘔吐感に拍車をかけた。差し出された器に屈みこむようにして胃の中のものを吐き出す。
「ぐ…う……ぅえ………げほっ……」
「大丈夫か」
背中を優しく撫でられて、少し楽になった山崎は青年に感謝を述べた。青年は少し困った顔をして、それから山崎を再び横たえる。
「もう寝ろ。飯が出来たら起こしてやるから」
ふわりと目の上に乗せられた手の暖かさに、山崎は思わず目を閉じた。それを見届けて立ち上がりかけた青年が、思い出したように動きを止める。
「おい」
「……はい」
寝ろ、と言っておきながら声をかけてきた青年を不思議に思いながら、山崎はゆっくり目を開ける。忘れてた、と呟いた青年は、再び億劫そうな眼差しで尋ねた。
「お前、名前は?」
「……名前……」
「……それも忘れてんのか?」
「違、違います」
困惑の言葉に慌てて訂正をした山崎は、再び襲った頭痛に顔を顰める。
名前は、と聞かれて答えた。そんな記憶が、近くにあるようで、ひどく遠い。
「さがる、です。山崎、退」
「へェ」
黒髪の青年は、少し笑って、山崎の頭を撫でた。
「退、ねえ。えらく後ろ向きな名前だな」
体中と、頭の奥と、頭の前の額の近くがずきずきと痛んでいる。
それに加えて身体の中の、心臓の辺りがひやりと縮んだ。
黒髪の人が名前を尋ねて、返答を聞いて少し笑う。
その人の瞳が、何やら優しい色をしている。
なのに。
「うっ……ぐ、…うぇ……」
「おい、お前、大丈夫かよ」
突然襲った苦しさに唸り咳き込んだ山崎の背中を、青年が慌てながらもさする。
「俺は、土方十四郎。あともう一人、近藤さんって人がいるから、後で会わせるよ」
背中を何度もさすられて、ようやく落ち着いた山崎に土方は安堵したようにそう告げた。小さく頷く山崎の頭を一度ぽんと叩いて、それから立ち上がる。
「もう寝てろ。あと、気持ち悪くなるんならあんま頭使うんじゃねェぞ。思い出せない記憶は思い出したくない記憶だから、無理に思い出さなくていい」
それだけ言葉を残して、土方は山崎を置いて部屋を出た。
ぱたん、と閉まった障子をぼんやり見てから、山崎は目を閉じる。
気持ちの悪さが、身体の中に引っかかっている。
単純な嘔吐感とは違う居心地の悪さ。冷たい刃を心臓に押し当てられたかのように、身の縮まる思いがしている。思い出さなければ気持ちが悪いままだと思うのに、考えようとすれば吐き気と頭痛で上手く考えられない。何かが引っかかっているような気がするが、本当に引っかかっているのかも分からない。
けれど、と思って山崎はそのまま眠りの淵に沈む。
思い出せない記憶は、思い出したくない記憶だから、無理に思い出さなくていいのだと、黒い髪の、優しい目をした人がそう言った。
だからもう、何も怖いことなどない。
だからもう、何も悲しいことなどない。
一人、大切な人さえいれば、他に何もいらなかったわけじゃない。
一人大切な人の傍にいる事が叶わないなら、その大切な人さえも、想っていたくないだけだ。
手に入れようと足掻いて、傷つけてしまう前に、想ったことすら捨ててしまいたい。
それだけだ。
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