誰かが隣にいる状態でこんなにも安らかに眠りにつけるなんて久しぶりのことだと思って、そんなにも安心できる程愛しい誰かが隣にいるということは何て幸せなんだろうと柄にもなく思った。
「……退?」
外の雨脚は昨晩よりも弱くなっていたが、それでも窓の外は未だ薄暗かった。目を覚ました高杉は隣に山崎の姿のないことを訝しがる。厠にでも行ったのかと思い、気付かなかった自分に少し驚きながら何気なく手を伸ばした山崎の布団には、あるはずのぬくもりが残っていなかった。
「退?」
眠れず起き出して、何かをしているのだろうか。思い起き上がって、とりあえず辺りを見回す。いない。土間を覗くがそこにもいない。厠にも姿がない。広い家ではないので、呼べばすぐに声の返ってくるはずだった。高杉は押入れの中や箪笥の陰などを覗き込みながら山崎を呼ぶ。
「退? どこにいる?」
常ならば、山崎は高杉が呼べばすぐに顔を見せる。嬉しそうな顔をして、作業をしていた手を止めて。本を読んでいた顔を上げて。
雨の中外へ出たのだろうかと思い、玄関に立てかけてあった傘を差して外へ出た。家の周りをぐるりと一周するが、姿は見えない。呼ぶ声に返ってくる声もない。高杉は眉を寄せる。未だかつて、山崎が高杉に何も言わず、この家の敷地外に出たことなどない。
一周して戻って来た玄関で、高杉は地面に落ちて汚れている一枚の布を見つけた。拾い上げるとそれは、雨と泥でぐしゃぐしゃになっている。見覚えのあるその手ぬぐいは元はこの家にあったもので、高杉と山崎が暫くの間拝借していたものだ。洗濯をしていた昨日の山崎の手に抱えられていたのを覚えている。
取り込み忘れて落ちたのか、と思い拾い上げようと屈んだ。そこで高杉は、地面の上に不審な跡を見つける。
「……足跡…?」
雨の所為ではっきりと残ってはいないが、ぬかるみ泥のようになった地面に、見覚えのない足跡があった。自分のものではない。山崎のものにしては大きすぎる。そしてその見覚えのない足跡の近くに一筋の、何かが引きずられたような跡。
「…………退?」
不安になって顔を上げる。先程よりも幾分か大きな声で名前を呼ぶ。返る言葉は、ない。
もう一度、家の周りを一周する。一つの異変も見逃すまいと目を凝らして歩けば、風に攫われたのだろうか、一つ桶が転がっている。雨の所為だと苛々しながら拾い上げれば、雨の当たらないよう陰になった部分に、泥がこすれて付いていた。
小さな足跡のような。子供に蹴られたような、そんな跡。
「――――退っ! 返事をしろ!」
高杉の顔から血の気が引く。声を張り上げ名前を呼ぶが、答える声のしないことが高杉の不安をひたすら煽る。無用ないたずらならば叱ってやる、と思いながら、桶を投げ捨て泥まみれの布を握り締め、乱暴な足取りで家の周りを歩く。そんなに広い家ではない。そんなに広い敷地ではない。山崎が、こんないたずらをするような子供でないことぐらい、高杉にも分かっている。
桶の他には何も見つけられず、高杉は再び玄関先へと戻った。見たことのない足跡。そして、何かを引きずったような後。よくよく見るためしゃがみ込めば、雨に流され消えかかった子供の足跡が、同じ箇所にいくつもあった。
暴れたような、逃げ出そうとしたような、そんな跡に、見えた。
「――――――――ッ!」
思わず傘を投げ捨て走り出す。敷地より外へ出て、いっそう声を張り上げ名前を呼ぶ。
「退っ!」
名前を呼んで、返事をしなかったことがない少年の、高い声が聞こえない。
「退! 退、どこだ!?」
走るので、足元の泥が跳ねる。雨で張り付く長い前髪がうっとうしくて、高杉は走りながら苛々と髪を掻き揚げた。
高杉が仮の居場所と決めた集落はそこまで大きくない。村と呼ぶにもまだ小さい。町の外れの更に外れにあるような、人の集まる小さな集落だ。そのどこにも人影がなく、人の気配もしない。山崎の姿も当然見えない。
家々を一つずつ覗いていく。声をかけながら走っては覗き、走っては覗きを繰り返す。何度繰り返しても返らない声に、高杉は苛々と後悔を募らせた。
ひどく、ひどく、雨が降っていて、その気配に夜は暫く眠れなかった。
眠れなかったので、山崎のことを考えていた。
何故拾ったのか。何故大切に思うのか。一緒に来いと言えば喜ぶだろうか。
好きだと伝えれば、どんな顔をするだろうか。
考えているうちに自然と安心して、雨の音も聞こえなくなり、ゆっくりと眠りに付いた。
隣にある温もりが愛おしくて、大切で、守りたくて、その温もりに引き込まれるように暖かな気持ちで眠った。安心して、気を許して。
山崎の身動ぎ一つで目が覚める高杉が、山崎の温もりに心を許してしまった。失敗と言うならばそれが失敗。
ひどくひどく雨が降っていて、その不安を、愛しい人が取り除いた。それが全ての失敗だった。
肩で大きく息をしながら座り込む高杉の目に人影が映ったのは、山崎を探し始めてどれくらいの時間が経った頃だろうか。集落の中は粗方探し終わり、雨もいつの間にか上がっていた。
濡れた髪を掻き揚げたその時視界を横切った人影に、高杉はがばっと顔を上げる。
「退!?」
その声にびくりと足を止めた人は、簡素な着物に小さな荷物を肩に掛けた旅人のようだった。
「……あ、…失礼……」
「いえ。そんなずぶ濡れで、どうかなさいましたか?」
高杉より幾分か年上のその旅人は、自分を呼び止めた高杉が雨に濡れた着物のままでいることに驚き荷物の中から手ぬぐいを一枚取り出す。礼を言ってそれを受け取った高杉は、そこで初めて自分が泥に汚れた手ぬぐいを握り締めていたままだったことに気付いた。
「どうかなさいましたか?」
どこか呆然とした様子の高杉を心配そうに見やって、旅人は声をかける。その言葉に高杉は自分の手元を見つめていた視線をゆっくりと上げた。
「人を……探しています」
「人? どんな人ですか?」
「13、4…くらいの、子供で……黒い髪が、肩より少し伸びています。目が、大きくて……身体は、少し細い」
「そうですか……。残念ながら、僕は見かけませんでした。道中、気をつけて見てみましょう。迷い子ですか?」
「朝から、姿が見えません。一人で出歩くような子では……」
「……。あ、……」
高杉の言葉に、旅人は何かを言いよどむように口を閉ざした。
「何か……何かご存知ですか!?」
視線を逸らした旅人の肩を思わず掴むようにする。高杉の手から、借りた手ぬぐいと汚れた手ぬぐいの二枚がひらりと地面に落ちた。
「その子のことは存じませんが……」
揺れる高杉の目を見る旅人は、気の毒そうな顔をする。
「この辺り、最近人攫いが出るという話を聞きます。丁度、貴方が探している年頃の少年ばかりが攫われているという話ですが……」
あるいはもしや、と旅人は言って、気の毒そうに高杉を見る。肩を掴んでいた手が突然力をなくしてだらりと落ちたことに慌てて高杉の顔を覗き込んだ旅人は、その顔が蒼白になっているのを知って更に慌てた。
「すみません、余計なことを言いました。そうと決まったわけではないですし、僕もこの先聞いて回って――――」
「どこだ」
「え……?」
「その、人攫いの話、どこで聞く」
「え、あ……この先にある寺に、戦火で親を失った子供が集められています。そこで、攫われた子が……あ、ちょっと!」
旅人の言葉を待たず、高杉は踵を返した。聞かされた方向へ真っ直ぐに駆ける。後ろで旅人の困惑したような声が上がった気がしたが、高杉には聞こえなかった。正直、それどころではない。
人攫い。幼い少年ばかりを狙う、人攫い。そんな奴の目的が、真っ当なものであるはずがない。
苛々としたまま高杉は駆ける。泥が跳ねて、着物の裾に汚れを作る。
常の癖で、刀を一振り差してきて良かったと妙なところで安心をした。
隣にある温もりが愛おしくて幸せで、常ならば眠れない夜に深く眠り、その所為で、守ると決めた愛しい温もりを失うことになったとしたら。
この先二度とは夜に目を閉じれない。
そう思って噛んだ唇に、ぷつりと血が滲んだ。
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