自分の身一つすらまともに守れない。
 こんなところに勝手に攫われて、逃げ出すことすらままならない。
 こんな自分が傍にいたいと、思ったことが間違いだったのだ。
 傍にいたいと身の程知らずなことを一瞬でも考えたりしたから、罰が当たったのだ。

 助けに来てと、呼んではいけない。
 そんな気持ちで、名前を呼んではいけない。
 助けに来てなどと勝手なことを、少し願うだけでもいけない。

 丁度良かったと天に感謝するべきだ。心の弱い自分では、きっとあの居心地の良い場所から逃げ出すことなど出来なかった。
 これ以上好きになる前に、無理矢理にでも、どういう形でも、傍を離れておかなければいけなかったのだ。
 助けに来てと、思ってはいけない。
 俺は人間だから安心しろと言ってくれたあの人が、こんな場所に来てはいけない。
 人間は結局、天人の味方でも何でも、結局同じ人間を傷つけるのだと知ってしまった。こんな醜い場所に来てはいけない。そんな現実を突きつけられて、汚されて、傷だらけになった自分のことなど知らずにいて欲しい。
 好きだと口にできただけで幸せなのだ。優しく触れられて、名前を呼ばれただけで幸せだったのだ。
 自分の命すら守れずに、傍に置いてなどとは。






 乱暴に持ち上げられ運ばれた身体が、乱暴に落とされたのが分かった。積まれた硬い木材に背中をぶつけて息が止まる。体中が痛くて、もうどこが痛いのか分からない。
「あーあ、これでまたガキ探しからスタートだよ」
「お前が調子に乗って傷付けたのが悪ィんだろ!」
「あのガキが暴れるのが悪ィんだよ!」
「探せばすぐに見つかるだろ。あと3日で見つけないと、天人様にどやされるぞ」
「冗談じゃなく食われるかもな」
「やってらんねーよなぁ」
 がやがやと騒がしい声が大きな足音と共に遠ざかっていくのが分かり、山崎はそっと目を開けた。
 頭も沢山ぶつけたし、目の辺りも殴られた。瞬きを繰り返しても霞んだ視界は元に戻らず、諦めてそうっと目を閉じる。吐き気がするが、吐こうとすれば体中が痛むので断念した。頭も身体も腕も足もどこもかしこも何もかもが不自然に痛んで苦しい。気持ちが悪い。
 何度か耳に入った会話の内容から、相手は人攫いの常習犯なのだろうということが知れた。『天人様』と揶揄って呼んでいたところを見ると、天人相手に子供を売りさばいている商人のようだった。商品として攫った山崎が余りにも暴れるので大人しくさせるために殴れば見える場所に傷が付いてしまって、それで商品としての価値がなくなったから、好きなように嬲られて。
 こうして捨てられたのだろう。
「……にんげん、」
 ぽつり、と山崎は呟く。それだけで切れた唇が痛い。口の中も唇の端も切れて、絶えず血の味がしている。これだけ血の味がするのに、どうして舌を噛み切れなかったかと後悔もする。
 だって晋助さんが救ってくれた命だ。と舌を噛み切りたいと思うたびに過ぎった。それでもやはり、高杉の役に立たない命なら捨ててしまってもよかったのだろうか。
「しんすけさん……」
 人間は、天人に組するものでも、同じ人間のことを無差別には傷つけないと信じていた。今の世の中がおかしくなってしまったのは全て天人の所為で、太平の世に戻すために攘夷志士がいるのだと思っていた。人間は味方で、天人は敵なのだと思っていた。
 だから。人間は優しいから、高杉は自分のことを助けたのだと山崎はずっと思っていたのに。
「…………ッ」
 目の奥が熱くなって瞼を上げた。霞んだ視界がますます霞んでいく。殴られても蹴られても嬲られても、生理的な涙以外零れなかったのに、どうして今自分は泣いているのか分からず山崎は汚れた着物の袖で瞼をぎゅっと押さえる。
 着物に熱い涙が染みる。その感覚が、更に涙を誘うがどうしようもない。
 人間は、優しいから、だから助けられたのだと思っていた。
 なのに結局人間は裏切るのだ。平気で人を無差別に傷つけることが出来るのだ。
 山崎は思う。自分が助けられたのは、高杉が優しかったからで、誰もが自分に優しいわけではない。
 誰でも優しいわけではない世界で、優しくしてくれた人。
 親を目の前で亡くし行く場所もなく、できることもない、そんな面倒くさい存在の自分を助けて、傍に置いてくれた人。剣という生きる術まで与えようとしてくれた人。
「晋助さん」
 唇も口の中も体中どこもかしこも痛むのに、呼べることならずっと呼んでいたかった。
 名前を呼んで、柔らかく振り向く姿を見るのが大好きだった。

 助けに来てと、思ってはいけない。
 自分を探してと、願ってはいけない。
 優しさで助けてもらった命一つ、まともに守れずに、傍にいたいと思ってはいけない。

 身体がずきずきと痛むのでせめて楽な体制を取ろうと思ったが、力が入らず動けなかった。もしこの身体がまともに動いて、足がまともに動いて、ぼろぼろの身体でも歩くことが出来たなら、最後に一度、さようならくらい言いたかった。
 笑顔でさようならを言う準備をしていたのに。

 ぽつり、と頬に水滴が当たって、山崎は閉じていた目を開けた。ぽつりぽつりと頬に鼻に唇に、水滴が当たる感覚が短くなる。雨だ、と思うより先に全身を雨が打ち始めた。汚れきった全身を雨が洗い流してくれるような錯覚。薄く笑んで、山崎は目を閉じた。
 目を開ければ全て夢で、高杉が笑いながら寝坊助と笑ってくれるような、そんな気がした。






 雨の音の中で、こつり、と足音が響く。
 気を失っていた山崎の意識を、やけに響いたその音がゆっくりと揺り起こす。
 強く強く、雨が地面を打っている。
 全身を濡らし続け熱を奪い続けて行く雨の所為で、もうわけが分からなくなっている山崎の上だけ、突然雨が止む。
 雨の音は尚激しく響いている。こつりと響いていた足音は止まっている。
「おい」
 雨の音に負けるように微かに、低く響く声がする。
 山崎はゆっくりと目を開けた。