二月経った。
 突然何もかも失って不幸のどん底へ叩き落されてから二月。黒髪の不思議な人に拾われてから二月。
 その頃になると、山崎は夜一人で泣くことも厠へ駆け込んで嘔吐することも少なくなっていた。その代わり、時折夜中に目を覚まして眠れなくなると、高杉の手を握る。高杉は大抵目を覚ましていて、何も言わず何も聞かず、その手を握り返してやるのだった。
 二月という時間が、両親を思い出して泣かなくなるまでの時間として長いのか短いのか、山崎にはよく分からない。二人が殺されたときのことも、それから後一人で怯えていたことも、もう薄ぼんやりとしか思い出せない自分はやはり薄情なのかな、とも思う。
 けれど、高杉が、無理に思い出さなくてもいいと言ったから。
 その言葉だけを鵜呑みにして、思い出せないのなら思い出さない方が良いのだろうと思って、気にしないようにしている。
 思い出せない記憶は、思い出したくない記憶だから、思い出さなくていいのだと。
 優しくそう言って、柔らかく髪を撫でた、その手があるから山崎は、気にせず笑っていようと思っている。

「退」
 名前を呼ばれて、そうっと顔を上げた。先程まで外で何やらしていた高杉が、いつの間にか部屋へと戻って来ていて、高杉に借りた書物をじっと見ている山崎のすぐ傍でしゃがみ込んでいる。
「なんですか?」
「おもしろいか?」
 はい、と答えると、そうか、と少し嬉しそうな顔をする。そんな高杉をじっと見つめていれば、何? と尋ねるように首を傾げられた。小さく首を振って、書物に目を戻す。
 簡単な兵法が分かりやすく書き連ねてあった。初歩の初歩だが、一番大切だからな、と高杉が大切に持っていたもので、剣の稽古をしないとき山崎はいつもこれを読んでいる。
 内容も興味深かったが、それを読んでいれば時折高杉が横から指を差して、一文一文丁寧に解説をしてくれるのが嬉しかったのが一番の理由だ。
 ふ、と目を上げると、高杉は山崎の前に座って、刀の手入れを始めていた。
 書物を読む振りをして、そうっと伺い見る。
 高杉はこのところ何度か、仲間と連絡を取り合っているようだった。あまりまとわり付いてもいけないかな、と思うので、実際にどのようなやり取りをしているのか山崎は知らない。銀髪のと、髪の長いのと、うっとうしいのとがいるんだよ、と一度教えてくれたことがあったが、それ以外にその「仲間」のこともよくは知らなかった。

 連れて行って、と、言い出そうかと躊躇って、未だに言えないでいる。

 どうせ、自分では足手まといにしかならないことなど分かりきっている。
 攘夷を押し進めて日本を変えるのだ、という考えが、とても魅力的ではあっても同時に途方もないことなのは、山崎にも分かった。出来る、出来ない、ではなくて、自分がそこに付いて行っても足手まといにしかならないと思うのだ。
 敵が討ちたいなら、と高杉は最初に行った。手段は同じだから、とでも言う風にそう言って、剣を教えると言ってくれた。
 実際には、簡単な扱い方だけ教わって、あとはずっと裏手に落ちていた薪を素振って練習しているだけだ。それだけでどれ程の力になるのかとは思うが、するとしないのとではまったく違うらしい。短期間で斬れるようになるにはこれが一番いい、と高杉は言ったから、山崎はおとなしくその通りにしている。そして時折、簡単に高杉と打ち合いをして、それだけだ。木刀も防具もないようなところで、まともな練習などできるはずもない。打ち合いをするたびに上達していると褒められたが、ただ薪を振っているだけの山崎にその実感はあまりなかった。
 元より、山崎が少し上達したところで、高杉は強すぎるのだ。
 そして、きっとその仲間も同じように強い。高杉の口ぶりからすると、高杉以上に強いかも知れない。
 だから自分は、邪魔なのだ。

 山崎は、そっと溜息を吐いて再び書物に目を落とした。
「退」
 そこへ高杉の声がかかり、思わずびくりとする。
「はい」
「お前、この先……」
「…………」
「……いや、まあ、いいか。――――――そろそろ腹が減る時間だぜ」
「あ、はい!」
 立ち上がって、土間へと走る。大体の準備はもう済んでいるから、後は火を通すだけだ。

 ぱたり、と足を止めて、山崎は目を閉じた。
 この先。
 そろそろ、言われるだろうなぁ、とは気付いていて、それでも、自分から、ここで別れますとは言えないでいる。
 その癖、連れて行って、とは言い出せない。
 付いて行けば、迷惑になるのだ。自分などが、甘い考えで付いていけば、迷惑になって、結局二月前のように大切な人の命を危険に晒してしまうのだ。
 きっと、どうにでもなるはず。ここを離れて、一人になってしまっても、生きようと思えばどうにでも、なるはず。なのに。なのに、どうしても。

 気付かれないように、そっと振り向いた。高杉は、山崎が開いたままで放っている兵法の書を指先だけでぱらりぱらりとめくっている。黄ばんだ紙をゆっくりめくる、白い指。
 無理矢理に視線を逸らして、もう一度ぎゅっと目を閉じた。


 ずうっと見てたいなぁ、と思うから、傍にいてはいけない。
 ずうっと傍にいたいなぁ、と思うから、連れて行ってと言ってはいけない。


「退、お前、ぼーっとしてるとまた焦がすぜ」
「こ、焦がしませんよ!」
「焦げてもいいが、お前が火傷するなよ」


 笑いながら、そうして気遣う、その声が。
 名前を呼ばれるのが、たまらなく幸せで、どうしようもなく好きだと思うから。




 だから、自分は、邪魔なのだ。
 傍に置いてと、言ってはいけない。