「晋助さん、りんごが食べたい」
「また林檎かよ。飽きねェなぁ」
食事を終えての山崎の言葉に、高杉は心底呆れたような顔をした。わざとらしく溜息をつきながら、それでも小さな刃物と林檎に手を伸ばす。切らず、刃を円の縁に当て、くるくると皮を剥いていく高杉を山崎はにこにこ見つめる。
「そんなに好きかよ」
「え?」
「林檎」
くるくると手を休めずに。その手から視線を逸らさず、山崎はうっとりと笑った。
「好きです。晋助さんのりんごはね、魔法のりんごなんですよ」
「はぁ?」
何だよそれ、と馬鹿にしたように笑いながら、くるくる。皮は、途中で途切れ、途切れたところからまたひらり、とゆれるようにして剥かれていく。くるくる。
「晋助さんのりんごは、食べると元気になれるんです」
「へえ?」
くるくる。林檎を器用に回す左手と、器用に刃物を操る右手。口元におかしそうな笑みを浮かべて、林檎を見るために伏せられた目。それを、じっと見つめながら、山崎は大切な言葉を口にするように、そっと口を開く。
「晋助さんの、りんごはね、俺を幸せにするんです」
知ってましたか? と。
うっとり微笑む山崎をちらり、と一瞥して、高杉は剥き終わった林檎を丸々山崎に手渡した。それをそうっと受け取って、山崎はしゃくり、と林檎に歯を立てる。
「おいしーい」
「そりゃ良かった」
晋助さんのりんごはね。
魔法のりんごなんですよ。
心の中だけで呟いて、山崎はしゃくり、と林檎を噛んだ。
甘いよりもすっぱいような、小さな林檎の味が口の中に広がって、それをそうっと飲み込んだ。
きっと、魔法をかけられたのに違いない。
夜半目を覚ました山崎は、暗がりの中で天井をじっと見上げた。目が徐々に闇に慣れ、おぼろげながら周囲の輪郭が見え始める。
すぐ隣の布団では、高杉が静かに寝息を立てていた。
少しでも身じろぎすれば起きてしまうだろうか。気になって山崎は、ぴくりとも動けない。深くゆっくり呼吸をしながら、静かに瞬きだけをする。
隣に眠る、不思議な人に、魔法をかけられたに違いないのだ。
(た・か・す・ぎ・し・ん・す・け)
声は出さず、唇の形だけで名前を形作る。それだけで少し泣きそうで、慌てて深く息を吸った。音をさせないように、ゆっくりと。
こんな自分はおかしいなぁ、と山崎は思っている。こんな自分は、きっと気持ち悪いだろうなぁ、と思っている。自分でもおかしくて、どうしようもなくて、困ってしまうから、だからきっと、最初にもらった林檎には不思議の魔法がかけられていて、自分はそれで魔法にかかってしまったんじゃないかなぁ、と思っている。
だって、傍にいるだけで幸せなのだ。
親を失って、行き場所も失って、この世の地獄だと思って、不幸というものはまったく人を選ばない、と目の前が真っ暗になったというのに、今では何故か、隣で眠る不思議な人の傍にいるだけでたまらなく幸せなのだ。
これはもう、おかしな術にかかったのだと思うより他はない。
気配を出来る限り殺して、そうっと身体を起こす。布団が音を立てないように、細心の注意を払う。高杉が目を覚ました気配はない。けれど、この人は、眠った振りがとても上手だから油断はならない、と山崎は唇をきゅっと結ぶ。
怖くて、怖くて怖くて目が覚めて、最初に思わず手を握ったとき、まさか起きているともそんなことで起きるとも思えなかったのに、握り返す指があった。どうした、とも聞かず、眠ったような振りをしながら、弱弱しく握る山崎の手を、強く握り返す指があった。
そうやって、この人は、何食わぬ顔で魔法を使う。
そうっと顔を覗き込んで、寝息が乱れていないのを確認する。もしかしたら、目を覚ましているかも知れなかった。けれど、眠っているのなら起こしてしまうのは嫌だったから、名前を呼んで確認はできない。
闇に慣れた目で、ぼんやりと、眠っているような人を見つめる。
黒い髪が闇にそのまま溶けていた。白い肌が、うっすら浮かび上がってきれいだった。
それをじいっと見つめながら、山崎は眉根を寄せる。泣いてしまいそうで、うろたえた。
最初の魔法は、多分、名前だったのだと思う。
退、と呼んで、いい名だと言った。名前を名乗っていい名だと言われたのは初めてで、両親が授けた名前の意味を言い当てられたのも初めてだった。
その、名前を、優しく柔らかく呼ばれることが嬉しくて、いつの間にか、名前でなくても声を聞いているのが嬉しくなって、ずっと聞いていたくて、ずっと見ていたくて、ずっと一緒にいたくて、こうして泣きそうになるくらいまでどうしようもなくなってしまった。
引力があるに違いないのだ。
どうしても、見ずにはいられない、傍にいずにはいられない、引力があるに違いないのだ。
それなのに傍にいてはいけないから、だから、本当は早く、さようならを言わなければならない。
連れて行って、とは言えないから、連れて行く、と言ってくれたらいいのになぁ。
付いて来いって、言ってくれたらいいのになぁ。
連れて行ってと言えばきっと拒まれはしないと分かっているから、そんな我侭は言えない。邪魔になると分かっていて、そんな我侭言えやしない。だから、一緒に来いと、言ってくれたらそれが一番いいのに。魔法をかけて、引力でどうしようもなく惹きつけるなら、その責任を取って欲しいのに。
無茶苦茶なことを考えながら、山崎はそっと身をかがめた。長く伸びてしまっている髪が落ちないように手で押さえながら。
「晋助さん」
小さく、小さく、声を出す。
起きないように、小さな声で。起きるように、声を出して。
「好きになって、ごめんなさい」
そうっと、唇を頬に落とした。
掠めるように肌に触れて、顔を上げれば涙がころりと転がり落ちた。
眠る人の、寝息は乱れない。起きているのか、起きていないのか、山崎には分からない。分からないから、そのままぎゅうっと目を閉じて、そしてやはり音をなるべくさせないように布団の中へと戻る。そのまま身体を縮こまらせるようにして、息を殺して少し泣いた。
好きになってごめんなさいと、罪悪感ばかりで。
だから山崎は、頬に口付けられた当の人が、隣でそっと目を開けたことを知らない。
そっと目を開けて、そっと目を閉じて、小さく小さく吐息を逃したことを知らない。
魔法使いも実は魔法に掛かっていて、我侭でも何でもいいから押し通して危険でも守り抜くだけの誓いを立てて、このままどこまでも連れて行こうか、などと、魔法使いが闇の中、心に決めたのを、山崎は知らなかった。
前 次